「すみません。借入手続をしたいのですが」

　総合窓口に立つ大滝のもとには、連日、様々な顧客が訪れる。今日、大滝に声を掛けてきたのは、スーツを纏った痩せぎすの青年だった。頬はこけ、顔色は蒼白を通り越して土気色。眼鏡を掛けた目だけが、ぎょろぎょろと異様に力強い。
　仕事柄、大滝の応対する顧客は、往々にして苛々と余裕がなく、横柄だ。この青年のようなタイプは珍しい。しかしこの類の顧客に限って、後々厄介なパターンに縺れ込むことが多いのだ。勤続数十年にのぼる、大滝の勘はよく当たる。

「借入のお手続きでございますね。当行の口座はお持ちでしょうか」

　大滝は、しかし表面上はそんな懸念をおくびにも出さず、つとめて穏やかに応対した。
　大滝の浮かべる人当たりの良い笑顔に、青年はにわかに安堵の表情を見せる。

「はい、勿論！　これ、通帳です」

　青年は、スラックスのポケットにそのまま突っ込んでいたらしい、通帳を差し出した。表紙の色は黒、蛍光イエローのラインが二本。
　大滝はわずかに、視線を眇める。

「先月、プラチナランクに上がりました。なので今すぐ、限度額いっぱい……千時間分を借りたくて」
「承知しました。返済プランについては、ご検討済でいらっしゃいますか？」
「いえ、まだ……」
「かしこまりました。プランのご相談も含め、窓口へご案内いたしますので、そちらのソファにお掛けになってお待ちください」

　大滝がそう答えると、青年は、感極まった様子で涙ぐみ、何度も頷いた。彼はそのまま、ソファに向かって幽鬼のごとく歩いていき、正面から、座面にばったりと倒れ込んでしまう。かしゃん、と音を立てて、床に落ちる眼鏡。青年が、既に深い眠りの底に落ちていることは明らかだった。

「大滝さぁん。借入(うち)のお客様ですか？」

　ずっと様子を伺っていたのか、借入窓口の向こうから声を掛けてきたのは、行員の窪田であった。辟易とした面持ちを隠そうともしていない。新卒で入行した時から、変わらない彼女の癖だ。顧客の前でも、こうして感情を率直に出し過ぎてしまうので、当時彼女の指導係だった大滝は、接遇研修の際、随分苦心したものだった。

「ええ、千時間分の借入をご希望です。こちらが、お預かりした通帳です」
「うわ、黒表紙。それに、黄マーカー二本。この時点で駄目っぽい」

　そう独りごちた窪田の言葉には、内心、大滝も同意であったが、思ったことを実際に口にするのとしないのとでは、行員としての品性に関わってくる。
　無言でカウンターを二回叩くと、伝わったのか、窪田はぴゃっと首をすくめて、パソコンに向き直った。

「顧客照会、完了です。えーと、吉村直人様、二十七歳。げぇ、またこの会社の人か」
「お得意様です？」
「それはもう。役員から管理職、非正規雇用の現場スタッフまで、ひっきりなしですよ。確かこの前、粉飾決算がすっぱ抜かれたんじゃなかったかなあ。ぼちぼち、貸倒れが始まるかも」
「なるほど。まあ、構いません。本部から正式な通達が下っているわけでもないですし、吉村様がお目覚めになったら、返済プランまで含め、ご案内して差し上げてください」
　
　大滝の言葉に、窪田は目を見開く。

「正気ですかぁ？　先月も、サービサーから苦情の嵐だったじゃないですか。損失計上が目に見えてます。あんなぼろぼろで、債権回収できるわけないですって」
「まあ、今回が泣きの一回ですよ。どのみちあのやつれようでは、とっくにお身体に障りが出ているでしょうから、そう遠くないうちにご本人の意志に関わらず、福祉を頼ることになるかと。そうなれば、貸出時間分どころか、利子付きで回収の見通しが立つんです。サービサーが何を言ってくることもない。それに……」

　大滝は、茶目っ気たっぷりに、ウインクしてみせた。

「こういう時、私の勘は当たりますよ」
「それは、知ってますけどぉ」

　窪田は、尚も煮え切らない様子で言い淀んでいたが、きっかり一分経過する頃には、憑き物が落ちたかのようにしらっとした顔で、借入手続の準備に取り掛かり始めた。切り替えが早いのも、入行当時からまた、窪田の変わらない癖だ。大滝はほほ笑んだ。

「それでは、あとは頼みます」
「あ、大滝さん。あの方、寝かしておくのはいいんですけど、貸出カウント、もう始めちゃっていいです？」
窪田が、カウンターに頬杖をつきながら尋ねる。問い掛けの形だが、窪田の性格上、あくまでも形式的に尋ねているだけだろう。大滝は肩を竦め、自身の肘をちょんちょんとつついてみせた。窪田が億劫そうに、頬杖の姿勢を正す。
「こういう場合、私が何と答えるか、貴女、十分ご存じでしょう」
「ご存じですけどぉ。きっちり上長指示を仰がないと、査定に響くかもしれないでしょ」
「まあ、仰る通りですね。――履行カウントは、あの方が手続きを終え、当行の外に出られてから進行するように」
「アイアイサー」
　
　敬礼した窪田は、また小言の飛んでくる前に、瞬時にカウンターの奥に引っ込んだ。大滝はやれやれ、と嘆息し、それから、青年の突っ伏しているソファに、ロールカーテンを引いてやる。顧客に、わずかながらの安寧を約束するためだ。

「せめて、当行においでの間くらいはよい夢を」

　大滝は独りごち、うん、と背伸びをした。

「さあ、持ち場に戻りますか。今日も元気に、日本全国民、生かさず殺さず。張り切ってまいりましょう」

　勤続数十年の大滝の胸には、『日本睡眠時間貯蓄銀行港第十支店　支店長』のバッジが、誇らしげに輝いていた。

【Fin.】

第38回 高橋源一郎「小説でもどうぞ」に応募した作品です。
テーマは「眠り」×2,000字程度の掌編。
もしも日本に、ミヒャエル・エンデの『モモ』の世界のように、時間貯蓄銀行があったなら。
とりわけ、●●時間の貯蓄に特化した銀行があったなら……？