一人の女性がいた。
年齢は28歳。
彼女はとある研究所で「被験体E」と呼ばれていた。
本名は別にあるが、研究所ではそんなものは必要とされていなかった。

「被験体募集 
  報酬 月1E万円 
  内容 普段通りの生活を送っていただき、観察いたします。定期的に研究所で投薬を行います。
個人情報は守られます」

治験のようだが、入院するわけでもなくただ日常を観察される。投薬、というのが気にかかるところだが、経済的に困窮した人間にとって月1E万円は魅力的であった。
殺到、まではいかないもののある程度の人数志願者はあらわれ、被験体Eと呼ばれた女性もそのうちの一人だった。
女性は無職で、ほぼ引きこもって日々を過ごしていた。
必要な情報は年齢と性別、持病や服薬等の有無だけで選考はない。志願者全員が対象とされた。
そして彼女の観察が始まった。

夕食、普段はパックご飯とふりかけで済ませるところだが、研究所からの報酬で経済的に余裕があったせいか宅配ピザを取った。半額の日ということもあり、Sサイズを4種類ほど頼んで適当につまみあとは冷凍していた。彼女は持病があったため、その薬を飲んだ。いつも飲んでいる薬は制限されない。普段通りの生活を送れるからだ。
その後ネットで配信などを眺めつつ、散らかり放題のベッドで彼女は眠りに落ちた。

被験体Eと呼ばれた成人女性は、ただひたすら日常を観察されている。
時折実験と称して研究所に呼び出されなんらかの薬を投与される。
ただそれだけの話

詩・童話・その他

被験体Eの日常

7EE年A月14日 観察開始

今日の被験体Eは、持病の定期受診へ向かった。
精神疾患のため公共交通機関での通院は大変困難であったが、研究所からの報酬のおかげでタクシーを利用することができた。

待合室で待つこと1E分、彼女は名を呼ばれ診察室に入っていった。
診察の内容は淡々としていた。
寝つきがあまりよくないこと、お通じは正常であること、そして日常生活がまともに送れないことを伝えた。特に生活保持を苦手としていた。部屋は他の人間が見たら目眩がするほど散らかっていたし、入浴も週1回できればいい方だった。医師はそれらを聞いた上で、不眠時用の頓服を追加した。診察はそれで終わりだ。
ほどなくして受付に呼ばれ会計を済ませ、彼女は薬局へと向かった。
薬局は混み合っており、1時間弱待つと告げられた。1時間弱時間をつぶせるような場所は周辺にない。この病院は入院病床を持つ大きな病院で、えてして入院患者を受け入れる精神科単科病院は辺鄙な場所にあるものなのだ。

1時間ほどの時間を、彼女は喫煙所で過ごした。値上がりだの世間の風当たりだので喫煙者は減っていたが、それでも彼女は煙草、しかも紙巻きを吸っていた。
B月ともなると外はそれなりに冷える。しかし1時間煙草を吸わずにいることは彼女には苦行であった。

風に吹かれぼんやりと空を見上げる彼女を、研究所の職員は話しかけるでもなくただ観察していた。

その後薬局に戻り薬を受け取ると、タクシーを呼ぶようスタッフに頼み、帰宅した。
夕飯は大手牛丼チェーンのつゆ抜き牛丼であった。

7EE年B月8日 定期受診

被験体Eはいつものようにネットサーフィンをしていた。
見ているのはショッピングサイト、彼女はネットショッピングを大変好んでいた。
引きこもりで外で買い物をすることは困難なため、ほとんどネットでほしいものは手に入れていた。
「観察」の報酬として多額の金を手に入れた彼女は、今までほしくても買えなかったものを狂ったように買い漁っていた。憧れの基礎化粧品のライン買い、趣味の紙雑貨、文房具、食品等々。古くなっていた衣類も買い替えた。
海外通販を利用することも厭わなかった。彼女は明らかな著作権違反のものや衣類、化粧品は避けていたが文具の類は異常に安価で大量に購入できるので愛用していた。購入したなりで未開封のままのものもあった。

報酬の1E万円はA万円まで目減りしていたが、どのみち翌日また1E万円手に入るのだ。彼女の買い物は、眠るまで止まることはなかった。

7EE年B月1E日 買い物依存

その日、被験体Eは研究所にいた。投薬実験が行われるからだ。

最新型の、行動を制限されない脳波や血圧、脈拍などを計測できる器具をつけられたのちに毒々しいカプセルを1つ渡され、飲むように言われた。彼女は特に躊躇いもせずそれを飲み下した。
そして帰宅させられた。

家では普段通りの生活を送るように、とのことであったが彼女は実に普段通り、好きな本を読み好きなゲームをし、好きなものを食べて眠りについた。
実験はこれで終わりだと思っていた。

しかし2日後、再度彼女は研究所に呼ばれた。
今度は10カプセル、同じ薬を飲めと命じられた。またしてもそれを易々と飲み、また帰宅した。

前回の10倍の量を飲まされたのだ、何か変化があるだろう。あるいは偽薬なのかもしれない、などと思いながらも彼女は生活した。やはり何も起きなかった。偽薬なのだろう、と思いながら布団に入った。
研究所のモニターも、通常通りのデータを計測していた。

そしてまた3日後。今度は100カプセルを飲めと言われ、流石に彼女も顔をしかめた。しかし、1E万円のためだ。多少身体に異変があってもかまわない、と半ばやけになりながら全て飲み干した。

その日も、何も起きなかった。
彼女は薬を飲まされたことより外出を強いられたことの方が不満だった。

研究所はにわかにざわついていた。
これだけの量を投与して何も起きないわけがない。しかし実際、何事も起きていない。翌日またしても彼女は研究所に呼び出された。これ以上の外出はごめんだ、と思ったが報酬のためなので仕方ない。ただ、いちいちタクシーを呼ぶのも面倒なので送迎を条件に研究所へと向かった。

研究員は彼女を見てなにやら小声で話しあった。特異体質なのではないか、取れるデータは全て取りたい、と。

血液検査、体組成、レントゲン、できる検査は全て行なった。現在の持病のみならず生まれてから記憶にある限りの既往症、服薬歴などの聞き取りもした。彼女は早く終わらないかとうんざりした表情を浮かべた。

全てのデータを取り終えたが、特に得られたことはなかった。
そもそも、100カプセル投与されて何事も起きなかった被験体がいなかったのだ。
大体は1カプセルで、10カプセルを投与すればほぼ全ての被験体で異変が起きた。そしてその被験体たちのおおまかなデータは記録されていたが、彼女の身体データにそれらの被験体と特別異なる点はなかった。

なにもわからない、と研究員たちは頭を抱え、彼女は一刻も早く帰って好きな配信を見たいと思っていた。
家に送り届けられている最中にも研究員は何らかのヒントがないか、とさまざまな雑談を試みたが、彼女の返事は興味がない、考えたことはない、つまらないなどといったものだった。個人情報を隠すためではない。ずっと観察を続けられていた彼女が今更隠しだてをする意味などない。本当にそれらの質問に対して全く興味がなかったのだ。

今回の投薬実験は失敗だ、唯一得られたことがあるとすれば原因不明で特定の薬が効かない人間も存在するということだけだ、とコンピュータに記録された。

この薬に関してはもう呼び出すことはないと告げられた彼女は、チョコバーをかじりながら配信にコメントを打つのだった。

7EE年C月1日〜7日 投薬実験

被験体Eは、珍しく電車に乗っていた。友人宅を訪ねるためだ。
友人、といってもただの友人ではない。ちょっとしたプレイメイトだ。しかし、お互いに恋愛感情はないし持つ気もない。利害関係が一致しているのだ。
普段は「それなりの場所」で落ち合うのだが、友人も貧困に苦しんでいるので彼女が友人宅に出向くことになった。ただし、ラッシュ時に電車に乗ることは大変困難なため泊めてもらうことになっていた。お互いの気まぐれで2泊。

友人は快く出迎えてくれ、買い物に行ったりネットサーフィンをしたりなどして過ごした。
プレイもあったが、当然それも研究者は観察していた。しかし、友人は研究対象ではなかったので研究所にデータがないので関係のないことだった。実際彼女も特に気にしていなかった。問題は友人に観察の話をしていなかったことだろうか。

2泊目の夕食は、二人で鍋をつついた。
お互い、人と一緒の食事はこんなに美味しいのかと言いあった。
その後友人は早々とこたつで寝てしまい彼女は眠る間際、寂しい、と感じていた。
ルームシェアでもできないだろうか、などと思いを巡らせたが、冷静に考えると彼女も友人も絶対的に一人の時間がないと生きられないタイプなのだ。感傷を振り切るように薬を飲んで寝た。

翌朝、寂しさはほんの気の迷いだったとばかりに消え失せていた。
その後駅まで見送られ帰宅した彼女は、友人宅とは比べ物にならないほど散らかった部屋にため息をつきながらもベッドに寝転がり、スマートフォンでゲームをした。

7EE年C月18〜1A日 外泊

被験体Eのもとにとある知らせが届いた。
それは実験の終了と、それとともに報酬も今月分で打ち切られるというものだった。

それから数ヶ月後、彼女は自ら命を絶った。研究所からの報酬による贅沢に慣れすぎたため、元の貧困生活に戻ることができなかったのだ。

研究所が発表した論文のタイトルはこうだ。
「分不相応な報酬を得た人間たちの行動パターンについて」

7EE年A月14日 観察開始

7EE年A月14日観察開始