- なし
# 1
月の舟・冬
オーロラの幕が、青や緑に揺らめいて舞う。ここは今、長い黒い冬だ。
雪は凍りついている。犬ぞりが一つ、舟から見える場所を疾走している。
私の舟は月の舟、こんな黒い夜には、透明な壁や床を通して、黄色がかった内部の明かりが外へも流れ、地上からもよく見える。黒い氷原へ、舟の黄色い影が映るほども降りれば、大地は薄青く反射する。
そりの中の人は鞭を使い、犬達を急かせる。舟から逃げるでもなく、先ほどからしばらく、わざとこちらの見える場所を走るようだ。
(追ってくる人もいた。杖を上げ弓を引き、追い払おうとする人もいた。祈る人も叫ぶ人も。「こっちへおいで!」というように、何度も大きく招く人も。歌って寄越す人もいた、海獣の皮で張ったドラムを叩き、踊って見せる人もいた。ただ佇んで眺め、見送るだけの人もいた)
地上の影を生きる人たちが色々な時、色々な場所で船を見上げる、その様子を私はいくつも覚えている。
(でも私は、降りられはしないから。この舟が、地上へ降り、着けることもないから)
舟は黒く長い、ほとんど明けない極地の冬の夜を、大抵は黄色く、金色く光りながら、静かに飛んで行く。内部の光源の調色を、私が変えたくなった時には、銀色や白色光の痛いほどの光になることもある。だが大抵は黄色い色で、私が眠る時になれば明かりもほとんど消して、赤黒い影の色だ。
年長の仲間達を順に見送って、その後は、私だけが舟にいる。最後に見送ったのは年寄りの縞猫で、大体、一年前のことだった。猫は月より黄色な目をしていて、おそらく自分のことを「小さい特別な人間」だと思っていた。人間より器用な(狭い場所や高い場所にも行ける)、人間より便利な(着替えなくてもよく、入浴しなくても良い)人間だ。
(あるいは私のことを、大きくて不器用で、不便な「猫」だと思っていたのかもしれないが)
舟は必要品を補給しに、港へ向かっている。いつも港を出て、港へ向かっている。高緯度地帯に何十箇所か設けられた古い無人の港を、定期的に回り続ける。港では、航行中に出た廃棄物を降ろし、食品や衣料品、飲料水や交換部品を積み込む。
仲間の亡骸を専用の棺に入れて降ろしたのも、去年の猫が最後だった。小さな棺は本当は、子どもか赤ん坊用だったのかもしれないが、それを「使ってはならない」と止める者は誰もいない。
外とのやり取りは、すべて舟が自動装置を介して行う。私は細かな指示を入れ――数量の調整や品目の詳細を指定するようなことだ――舟の応答と報告をチェックする。
「音を入れますか」
長く外を見ていたため、舟が私に尋ねた。「入れて」と答える。外の空気がそのまま入ってくるわけではないと知っており、つまり外の音がそのまま入ってくるのではないとも知っている。センサーで読み取った音の波形を再構成して、透明な壁に囲まれた室内へ音が流れる。
オーロラのピチピチ鳴る中、晴れた夜の静かな風、それでも鋭い風の音が縦横に吹く。風に揺らぐ、犬ぞりを走らせる人の犬達への掛け声、鳴らされる鞭が空気を破裂させるパァンと大きな音も、部屋に響く。部屋からは代わりに黄色な月色の光が、黒い外の長い冬へと滲み出して流れてゆく。
(あの人と私は同じ種類の生き物だけれども、別々の場所でしか生きられない)
犬達を使役して氷原を駆け、空気銃で仕留めた大鹿や離頭銛で獲った海獣を解体する技は、私にはないもので、馴鹿の群れを追って暮らす術も同様に知らない。だから私はあの地上へ降りては生きていかれないが、犬ぞりで走るあの人のような人を(それは数がとても少ないにせよ、私よりはまだ多い)犬や氷原から離して舟へ乗せても、喜んで暮らしていくとは思われない。
(舟は永遠ではなく、港の蓄えにも限りがある)
私は、自分の黒髪に白く消えない星が流れ、流れを増し、氷海に浮かぶ暗い月の銀色を増やしていくのもそのままにしていた。仲間を見送った後、誰も舟へと入れなかった。
(私一人が終わるまでは、舟と港が充分持ち堪えると、舟自体も言っている。その先しばらくも大丈夫だと言うけれど)
私は誰かを舟へ入れる気はなかった。
「おーい! 月の舟! 月の舟!」
犬ぞりの人が地上で叫ぶ。多分そんなようなことだろう。言葉は分からないが意味は分かる気がするのだ。犬達を走らせ、そりの上から舟を追って付いて走る。呼び止めたいわけではないだろう。降りて来させたいのでもないだろう。ただ呼び掛けたいだけなのだろう、澄んで凍るような風を切って、毛皮のフードの中へほんのちょっと出ている頰が真っ赤だ。点のように見えるあの黒い瞳を、風のせいで湧く少しの涙と、興奮のために煌めかせているだろう。
「おーい、そりの人、そりの人」
私も独り答えるが、声は外へ聞こえない。
冬の、海氷でできた氷の地面は雪で覆われ凍てついて、夏のように危ない裂け目も溝もなく、星とオーロラを受け広がるばかりだ。どこまでも追って来られるように思えるが、慣れた場所より遠くへ走ることへの警戒と、犬達の疲れによって、そりもやがて止まる。帰るだけの余力は充分に残して、止まったそりから、その人は止まらない私の舟を見送る。
(珍しいものを見た、と、戻って誰かに話すだろうか。あの人にその誰かがいるのならば)
誰かがいないとしても犬達はいる。私は話す相手と言って舟以外にないため、記憶の中の仲間達と縞猫に話し、私自身に話し、黒い火山ガラスの塊へ爪の粉と樹脂の練香を混ぜた粘着インクで文字を書く。黒い石の記録は、舟の棚に並べられ、静かに光る。
赤道地帯には「太陽の舟」があるという。月の舟より大きいとも聞いた。そこには私のような人が、今も乗っているのかもしれない。独りではなく複数、いるのかもしれない。
しかし中緯度地域を覆う、止まない荒天と電磁的な妨害壁のせいで、私の舟は高緯度帯を離れて赤道へ向かうことはできない。舟が順に立ち寄る、登録された無人の港以外の、しかし似たようなはずの港は、古い地図上にだけは、いくつもあるように記される。だが港が今もそこにあって、立ち寄れるものなのかどうかは分からない。
(通信機能は、失われて久しい)
太陽の舟は。
激しい陽光と同じだけの影の夜を日々、繰り返す地帯の中で、私と同じように飛んでいるだろうか。誰かが乗っているだろうか。
長い冬はまだ明けない。黒い夜は続く。明かりを消して私は眠るが、舟はその間も飛び続ける。
(おわり)
雪は凍りついている。犬ぞりが一つ、舟から見える場所を疾走している。
私の舟は月の舟、こんな黒い夜には、透明な壁や床を通して、黄色がかった内部の明かりが外へも流れ、地上からもよく見える。黒い氷原へ、舟の黄色い影が映るほども降りれば、大地は薄青く反射する。
そりの中の人は鞭を使い、犬達を急かせる。舟から逃げるでもなく、先ほどからしばらく、わざとこちらの見える場所を走るようだ。
(追ってくる人もいた。杖を上げ弓を引き、追い払おうとする人もいた。祈る人も叫ぶ人も。「こっちへおいで!」というように、何度も大きく招く人も。歌って寄越す人もいた、海獣の皮で張ったドラムを叩き、踊って見せる人もいた。ただ佇んで眺め、見送るだけの人もいた)
地上の影を生きる人たちが色々な時、色々な場所で船を見上げる、その様子を私はいくつも覚えている。
(でも私は、降りられはしないから。この舟が、地上へ降り、着けることもないから)
舟は黒く長い、ほとんど明けない極地の冬の夜を、大抵は黄色く、金色く光りながら、静かに飛んで行く。内部の光源の調色を、私が変えたくなった時には、銀色や白色光の痛いほどの光になることもある。だが大抵は黄色い色で、私が眠る時になれば明かりもほとんど消して、赤黒い影の色だ。
年長の仲間達を順に見送って、その後は、私だけが舟にいる。最後に見送ったのは年寄りの縞猫で、大体、一年前のことだった。猫は月より黄色な目をしていて、おそらく自分のことを「小さい特別な人間」だと思っていた。人間より器用な(狭い場所や高い場所にも行ける)、人間より便利な(着替えなくてもよく、入浴しなくても良い)人間だ。
(あるいは私のことを、大きくて不器用で、不便な「猫」だと思っていたのかもしれないが)
舟は必要品を補給しに、港へ向かっている。いつも港を出て、港へ向かっている。高緯度地帯に何十箇所か設けられた古い無人の港を、定期的に回り続ける。港では、航行中に出た廃棄物を降ろし、食品や衣料品、飲料水や交換部品を積み込む。
仲間の亡骸を専用の棺に入れて降ろしたのも、去年の猫が最後だった。小さな棺は本当は、子どもか赤ん坊用だったのかもしれないが、それを「使ってはならない」と止める者は誰もいない。
外とのやり取りは、すべて舟が自動装置を介して行う。私は細かな指示を入れ――数量の調整や品目の詳細を指定するようなことだ――舟の応答と報告をチェックする。
「音を入れますか」
長く外を見ていたため、舟が私に尋ねた。「入れて」と答える。外の空気がそのまま入ってくるわけではないと知っており、つまり外の音がそのまま入ってくるのではないとも知っている。センサーで読み取った音の波形を再構成して、透明な壁に囲まれた室内へ音が流れる。
オーロラのピチピチ鳴る中、晴れた夜の静かな風、それでも鋭い風の音が縦横に吹く。風に揺らぐ、犬ぞりを走らせる人の犬達への掛け声、鳴らされる鞭が空気を破裂させるパァンと大きな音も、部屋に響く。部屋からは代わりに黄色な月色の光が、黒い外の長い冬へと滲み出して流れてゆく。
(あの人と私は同じ種類の生き物だけれども、別々の場所でしか生きられない)
犬達を使役して氷原を駆け、空気銃で仕留めた大鹿や離頭銛で獲った海獣を解体する技は、私にはないもので、馴鹿の群れを追って暮らす術も同様に知らない。だから私はあの地上へ降りては生きていかれないが、犬ぞりで走るあの人のような人を(それは数がとても少ないにせよ、私よりはまだ多い)犬や氷原から離して舟へ乗せても、喜んで暮らしていくとは思われない。
(舟は永遠ではなく、港の蓄えにも限りがある)
私は、自分の黒髪に白く消えない星が流れ、流れを増し、氷海に浮かぶ暗い月の銀色を増やしていくのもそのままにしていた。仲間を見送った後、誰も舟へと入れなかった。
(私一人が終わるまでは、舟と港が充分持ち堪えると、舟自体も言っている。その先しばらくも大丈夫だと言うけれど)
私は誰かを舟へ入れる気はなかった。
「おーい! 月の舟! 月の舟!」
犬ぞりの人が地上で叫ぶ。多分そんなようなことだろう。言葉は分からないが意味は分かる気がするのだ。犬達を走らせ、そりの上から舟を追って付いて走る。呼び止めたいわけではないだろう。降りて来させたいのでもないだろう。ただ呼び掛けたいだけなのだろう、澄んで凍るような風を切って、毛皮のフードの中へほんのちょっと出ている頰が真っ赤だ。点のように見えるあの黒い瞳を、風のせいで湧く少しの涙と、興奮のために煌めかせているだろう。
「おーい、そりの人、そりの人」
私も独り答えるが、声は外へ聞こえない。
冬の、海氷でできた氷の地面は雪で覆われ凍てついて、夏のように危ない裂け目も溝もなく、星とオーロラを受け広がるばかりだ。どこまでも追って来られるように思えるが、慣れた場所より遠くへ走ることへの警戒と、犬達の疲れによって、そりもやがて止まる。帰るだけの余力は充分に残して、止まったそりから、その人は止まらない私の舟を見送る。
(珍しいものを見た、と、戻って誰かに話すだろうか。あの人にその誰かがいるのならば)
誰かがいないとしても犬達はいる。私は話す相手と言って舟以外にないため、記憶の中の仲間達と縞猫に話し、私自身に話し、黒い火山ガラスの塊へ爪の粉と樹脂の練香を混ぜた粘着インクで文字を書く。黒い石の記録は、舟の棚に並べられ、静かに光る。
赤道地帯には「太陽の舟」があるという。月の舟より大きいとも聞いた。そこには私のような人が、今も乗っているのかもしれない。独りではなく複数、いるのかもしれない。
しかし中緯度地域を覆う、止まない荒天と電磁的な妨害壁のせいで、私の舟は高緯度帯を離れて赤道へ向かうことはできない。舟が順に立ち寄る、登録された無人の港以外の、しかし似たようなはずの港は、古い地図上にだけは、いくつもあるように記される。だが港が今もそこにあって、立ち寄れるものなのかどうかは分からない。
(通信機能は、失われて久しい)
太陽の舟は。
激しい陽光と同じだけの影の夜を日々、繰り返す地帯の中で、私と同じように飛んでいるだろうか。誰かが乗っているだろうか。
長い冬はまだ明けない。黒い夜は続く。明かりを消して私は眠るが、舟はその間も飛び続ける。
(おわり)
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