- なし
# 3
3.無力侍女は詰られる
侍女の1人が隠し持っていたナイフがエルゼ・スフィレアの耳元をかすめ、髪の毛が数本落ちていく。
「皇妃派なんて人がどうしてここにいるのかしら。ここは国中の女性たちが憧れるお方、太陽たる皇帝陛下をお支えする月の方、皇后陛下がおわす宮なのよ」
壁際に追い詰められたエルゼ・スフィレアを取り囲む侍女たちはいわゆる「皇后派」に属する家出身で、なかでも過激派の令嬢たちだ。
皇妃という名称の補佐役を帝城にあげると決まったとき、皇帝夫妻への高い忠誠心を示すように過激派が結成された。中心核は皇后のいる白金宮に身内が勤めていたり、娘が行儀見習いをしている家で。
彼女たちから見るとエルゼ・スフィレアは、自陣のど真ん中に敵がいるという状況なのだ。
「私は皇妃候補として入城こそしましたがそんなつもりはありません。皇帝陛下のお隣にもっともふさわしいお方は皇后さま以外におりませんから」
「立場はわきまえているようね。ならなおさら辞退し帰りなさい。陛下がご命じになられたとはいえ固辞するべきだったのでは?」
ナイフを持っていた侍女とは別の娘が高圧的に睨んでくる。
白金宮で働く侍女やメイド、コックたちにはエルゼ・スフィレアが皇妃候補であることと皇后の下知で側仕えをすることがエリーナによって周知されていたが、だからといってエルゼ・スフィレアが受け入れられるかは別問題だった。
押し問答が続くなかでそれぞれ口にする言葉は違えど、総じて「帰れ」と言っている。
子爵という下級貴族が皇妃候補として入城したことさえ気に食わない様子だ。
皇后の宮、白金宮で働く侍女たちは上級貴族の生まれしかいない。メイドやコックも皇后カロス=アネモスが引き抜いてきた精鋭で、この国では上級の爵位を与えられているものたちばかりだ。
「あなたがいちばんの下っ端で、男爵に次ぐ下級貴族の娘なの。おわかり?」
「下っ端メイドとして働くならまだしもエリーナさまの下について侍女見習いですって?」
「皇后陛下のおそばに相応しいのはエリーナさまとその一族以外に認めないわ」
エリーナとその一族は代々皇后の侍女を勤めている。エリーナの母親も侍女として長く尽くし、娘はそれこそトゥイーニーから始まり別の宮で侍女として働いていた。
「確かに下っ端として働けというならそうします。ですがあなたがたも分かっているはずです、陛下のご命令に尽くすことこそ忠心だと」
エルゼ・スフィレアの言葉にカチンときた侍女たちが口を開く、前に冷たい空気がその場を支配する。全員の足元がうっすらと凍り付いた。
「このような場所でたむろしないように。陛下の品性を疑われてしまいますよ」
ゆっくりと歩いてくるエルゼ・スフィレアたちと同じ年ごろの少年。皇后カロス=アネモスと似た髪色の彼は鋭い視線を向けてきていた。
ヒッと誰かが息をのむ音が聞こえる。
「キュスタ、総執事長……」
「エリーナ。あなたはこのような場所でたむろし、陛下の品性を下げるような教育を侍女になさっているのですか?」
「申し訳ございませんキュスタさま。わたくしの監督不行き届きにございます」
あっと誰かの悲鳴が響いた。
帝城の侍女やメイドでいちばん偉い役職がエリーナとすれば、執事や使用人たちをまとめるエリーナよりも偉い存在、ノワール・クリュスタ・フリージズ・キュスタがエリーナを控えさせながら立っていた。
毛に覆われた尾とまっすぐな角を持つ少年は氷結魔法の使い手でもあり、この場にいる侍女たちの足を凍らせているのは彼の意思だ。
「あなたがたがその娘をどうしようと勝手ですけど、陛下の一存でここにいることを忘れないように。皇后さまのお望みをすべて叶える皇帝陛下の御心でその娘がいる、ということをね」
冷酷で冷淡なアイスブルーの瞳がエルゼ・スフィレアを捉える。
すぐ近くにいた侍女たちが短い悲鳴とともに体をねじって距離を取ろうとした。
「エリーナ、のちほどこの件について話があります」
「はい、キュスタさま」
仕事に戻るように、とだけ言い残し、足元の氷を解くノワール。自由になったと同時に侍女たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
エルゼ・スフィレアだけがそこに留まり罪人のように首を差し出した。深々と一礼する姿を冷めた目で一瞥したノワールは無視してとある場所を目指す。
階段をあがり、宮の最上階、日当たりのいい部屋。螺鈿細工が施された大扉を開けた先に広がるのは壁を覆いつくす本棚の群れ。
「ティールームにてくつろいでおいでです」
「わかりました。あなたはお茶とケーキを」
「かしこまりました」
書斎ともいうべきその部屋は古文書というべき本からいま市井で大人気の小説本まで取り揃えていて圧巻のひとことに尽きた。使い込まれた机の上に立っている羽ペンと、蓋がされた状態で転がっている万年筆がどこか哀愁を漂わせている。
歴代の皇后が使っている執務室の奥にある扉をひと呼吸置いてからノワールは叩いた。
「入りますよ」
敬うべき相手が在室だと知りながら乱雑に開ける。
いまこの場でノワールは忠臣とならずともいいことを知っているから、フランクだ。
「あれ、どうしたのルー。あなたが来るなんて珍しいね」
優雅にティーカップを傾けくつろいでいた部屋の主、皇后カロス=アネモスはそんなノワールを咎めもせず、愛称で呼ぶ。あまつさえ隣に座るようにうながした。
「いま、あ、ごめんなさい。出涸らしなのよ。新しいの用意してもらうわ」
「その必要はないよルールー。エリーナに言いつけてある」
「本当? ありがとう」
躊躇せず腰を下ろしたノワール。皇后カロス=アネモスも皇帝以外の前で外そうとしない赤の面布を取り払う。
ティーポットの中身を気にする皇后を制し、ノワールは木製バスケットのなかで整列していたクッキーを1枚くちに放り込んだ。
皇后はウキウキしながら両手でティーカップを持ち「乾杯しよう」と掲げる。しょうがないな、と微笑ましげなノワールはクッキーをもう1枚手に取った。
「はい兄さん、かんぱーい」
トン、と触れ合わせた瞬間花が咲くように笑った皇后につられておなじようにノワールも笑った。
「皇妃派なんて人がどうしてここにいるのかしら。ここは国中の女性たちが憧れるお方、太陽たる皇帝陛下をお支えする月の方、皇后陛下がおわす宮なのよ」
壁際に追い詰められたエルゼ・スフィレアを取り囲む侍女たちはいわゆる「皇后派」に属する家出身で、なかでも過激派の令嬢たちだ。
皇妃という名称の補佐役を帝城にあげると決まったとき、皇帝夫妻への高い忠誠心を示すように過激派が結成された。中心核は皇后のいる白金宮に身内が勤めていたり、娘が行儀見習いをしている家で。
彼女たちから見るとエルゼ・スフィレアは、自陣のど真ん中に敵がいるという状況なのだ。
「私は皇妃候補として入城こそしましたがそんなつもりはありません。皇帝陛下のお隣にもっともふさわしいお方は皇后さま以外におりませんから」
「立場はわきまえているようね。ならなおさら辞退し帰りなさい。陛下がご命じになられたとはいえ固辞するべきだったのでは?」
ナイフを持っていた侍女とは別の娘が高圧的に睨んでくる。
白金宮で働く侍女やメイド、コックたちにはエルゼ・スフィレアが皇妃候補であることと皇后の下知で側仕えをすることがエリーナによって周知されていたが、だからといってエルゼ・スフィレアが受け入れられるかは別問題だった。
押し問答が続くなかでそれぞれ口にする言葉は違えど、総じて「帰れ」と言っている。
子爵という下級貴族が皇妃候補として入城したことさえ気に食わない様子だ。
皇后の宮、白金宮で働く侍女たちは上級貴族の生まれしかいない。メイドやコックも皇后カロス=アネモスが引き抜いてきた精鋭で、この国では上級の爵位を与えられているものたちばかりだ。
「あなたがいちばんの下っ端で、男爵に次ぐ下級貴族の娘なの。おわかり?」
「下っ端メイドとして働くならまだしもエリーナさまの下について侍女見習いですって?」
「皇后陛下のおそばに相応しいのはエリーナさまとその一族以外に認めないわ」
エリーナとその一族は代々皇后の侍女を勤めている。エリーナの母親も侍女として長く尽くし、娘はそれこそトゥイーニーから始まり別の宮で侍女として働いていた。
「確かに下っ端として働けというならそうします。ですがあなたがたも分かっているはずです、陛下のご命令に尽くすことこそ忠心だと」
エルゼ・スフィレアの言葉にカチンときた侍女たちが口を開く、前に冷たい空気がその場を支配する。全員の足元がうっすらと凍り付いた。
「このような場所でたむろしないように。陛下の品性を疑われてしまいますよ」
ゆっくりと歩いてくるエルゼ・スフィレアたちと同じ年ごろの少年。皇后カロス=アネモスと似た髪色の彼は鋭い視線を向けてきていた。
ヒッと誰かが息をのむ音が聞こえる。
「キュスタ、総執事長……」
「エリーナ。あなたはこのような場所でたむろし、陛下の品性を下げるような教育を侍女になさっているのですか?」
「申し訳ございませんキュスタさま。わたくしの監督不行き届きにございます」
あっと誰かの悲鳴が響いた。
帝城の侍女やメイドでいちばん偉い役職がエリーナとすれば、執事や使用人たちをまとめるエリーナよりも偉い存在、ノワール・クリュスタ・フリージズ・キュスタがエリーナを控えさせながら立っていた。
毛に覆われた尾とまっすぐな角を持つ少年は氷結魔法の使い手でもあり、この場にいる侍女たちの足を凍らせているのは彼の意思だ。
「あなたがたがその娘をどうしようと勝手ですけど、陛下の一存でここにいることを忘れないように。皇后さまのお望みをすべて叶える皇帝陛下の御心でその娘がいる、ということをね」
冷酷で冷淡なアイスブルーの瞳がエルゼ・スフィレアを捉える。
すぐ近くにいた侍女たちが短い悲鳴とともに体をねじって距離を取ろうとした。
「エリーナ、のちほどこの件について話があります」
「はい、キュスタさま」
仕事に戻るように、とだけ言い残し、足元の氷を解くノワール。自由になったと同時に侍女たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
エルゼ・スフィレアだけがそこに留まり罪人のように首を差し出した。深々と一礼する姿を冷めた目で一瞥したノワールは無視してとある場所を目指す。
階段をあがり、宮の最上階、日当たりのいい部屋。螺鈿細工が施された大扉を開けた先に広がるのは壁を覆いつくす本棚の群れ。
「ティールームにてくつろいでおいでです」
「わかりました。あなたはお茶とケーキを」
「かしこまりました」
書斎ともいうべきその部屋は古文書というべき本からいま市井で大人気の小説本まで取り揃えていて圧巻のひとことに尽きた。使い込まれた机の上に立っている羽ペンと、蓋がされた状態で転がっている万年筆がどこか哀愁を漂わせている。
歴代の皇后が使っている執務室の奥にある扉をひと呼吸置いてからノワールは叩いた。
「入りますよ」
敬うべき相手が在室だと知りながら乱雑に開ける。
いまこの場でノワールは忠臣とならずともいいことを知っているから、フランクだ。
「あれ、どうしたのルー。あなたが来るなんて珍しいね」
優雅にティーカップを傾けくつろいでいた部屋の主、皇后カロス=アネモスはそんなノワールを咎めもせず、愛称で呼ぶ。あまつさえ隣に座るようにうながした。
「いま、あ、ごめんなさい。出涸らしなのよ。新しいの用意してもらうわ」
「その必要はないよルールー。エリーナに言いつけてある」
「本当? ありがとう」
躊躇せず腰を下ろしたノワール。皇后カロス=アネモスも皇帝以外の前で外そうとしない赤の面布を取り払う。
ティーポットの中身を気にする皇后を制し、ノワールは木製バスケットのなかで整列していたクッキーを1枚くちに放り込んだ。
皇后はウキウキしながら両手でティーカップを持ち「乾杯しよう」と掲げる。しょうがないな、と微笑ましげなノワールはクッキーをもう1枚手に取った。
「はい兄さん、かんぱーい」
トン、と触れ合わせた瞬間花が咲くように笑った皇后につられておなじようにノワールも笑った。
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