著者 星町憩
  • なし
# 7

第六頁 海底の窓

 船の奥には、砂で汚れたたくさんの窓と扉があった。繊細な模様が彫刻された扉を開けて中に入ると、日に焼けた白い木板の廊下が長く続いている。廊下の途中にもまたドアがあって他の広い部屋に出たり、上へと続く階段があったりするのだった。壁には色褪せた絵が小さな金色の額縁に収められて飾られていた。
「このお船、ハダリーの船とは随分見た目が違うよね、大きさも」
「船長な。いい加減覚えろい」
 顔をじっと見上げてくるジルビにちらと目線を寄越して、ハダリーは下唇をつきだしふっと息を吐いた。
「こりゃ旅客船だろ。クルーズってやつ。宿泊施設とか劇場とかな、そういう船そのものにはぶっちゃけ要らないような部屋がたくさんついていて、何も働かない人間たちがただ海の景色を楽しみながら移動するためだけに作られてる船なのさ。さしずめ、この絵も海底の窓ってとこかね。偽りの海を眺めて旅を楽しむ……ってか。洒落が効いてるな」
「海の景色……? この砂海を描いているってこと? この絵が? とても似ていないと思うけれど……」
 ジルビはなんとなく外の景色が見える窓を掌で撫でた。指紋が白くついただけで、窓は当然綺麗にはならないのだった。
「偽りの、つったろ。昔は大層青くて綺麗な水が海原いっぱいに広がっていたらしいぜ。海と言えば青。青と言えば海。全ての命は海から生まれて海に帰る、なんてこともな、謳われたらしいし」
 ハダリーは手をズボンのポケットに入れたまま背中を丸めて顎をつきだし、壁に飾られた絵を指し示した。
「ほら、この絵もあっちの絵も、全部青い海の絵だろ。こういう景色が昔は広がっていたんだろうよ。オレは知らねえけどな。オレが海をこの目で見た頃にゃ、海はもうすっかり砂に埋もれてた」
「どうして……こんな綺麗な海が、砂の海に変わってしまったの?」
 ジルビは青い海の絵を見つめながら呟いた。
 一つ一つの絵は、描き方も色合いも厳密には違っているように見えた。絵の下に見たことのない文字の書かれた白いプレートがある。きっと画家の名前か、絵画の題名が記されているのだろう。失われた母なる海――それが、様々な画家の手によって描かれている。
 綺麗だ、とジルビは思った。不意に【水曜日】を振り返ると、彼は眠げに瞼を半開きにしたまま、顎を引いて気怠そうに別の絵を眺めていた。この人も青色が好きなんだろうか――そう思いながら見つめていたら、【水曜日】はその眠たげな眼差しをジルビにも向けて、不思議そうに首を傾げた。
「んなこたオレが知るかよ。ま、色んな書物呼んだ限りでは、戦争――世界大戦が起こったらしくってさ。それで大陸がずぶずぶに崩れて砂になって、海にほとんど沈んでしまったんだと。砂が海の水を吸って、海は砂まみれになってしまった。だから青い海なんてものもなくなってしまった。でもさ、もともと海が青色なんてのも目の錯覚なんだよ。水が光の加減で青く見えてただけでな。それに砂とか土が混ざったら色の見え方が変わっちまったってだけの話。でも海にいた生物は強いやつらしか生き延びられず、確実にそれまでと世界は変わってしまった。見知った海が無くなったら、人は発狂したんだ。それで、」
 ハダリーは絵から目を逸らして、鼻を擦った。
「とある花の種を人体に植え付けた。その花はまず脳に寄生するやつでさ、錯覚を起こさせるんだよ。砂が太陽の光を浴びて輝くさまを、青い色だと錯覚させる。やがて花は体中を巡り数を増やしていく。花が育てば育つほど、世界に海が戻ってくるのさ。そうして花は人間の脳を喰らい尽くして、人間は眠る様に意識を失って、花の傀儡になる。……でも、眠るように意識がなくなって、特に苦しくもないし、世界はいつかは終わるし、最初は反対勢力もあったけど、結局人類は人間の尊厳を保つために花を受け入れた。青い海を知らない人は人ではないってのが、先人たちの出した結論だよ」
 ハダリーがすらすらとそう語る横顔を、ジルビはじっと見つめていた。まるで本の一節を暗記しているかのような淀みのない言葉だ。ハダリーの顔は、活き活きとして見えた。ジルビは思わず、声を零した。
「ハダリーって、勉強家なのね」
「あ? だから船長って呼べっつってんだろ。……単に、強奪したお宝を把握してるだけだよ。宝石以外にも宝って色々あんだろ? 本もそうだし、新聞、絵画、彫像、楽譜――そんなものもな」
「新聞?」
「あー……そん時の世界情勢を記した世界日記みたいなもんだよ」
「ふうん」
 ジルビは顎に指を当てて考え込んだ。
「ハダリーは、今それを探してるの? 宝石じゃなくて?」
「宝石は下っ端どもに回収させて……だからいいかげん船長って呼べよな、オレはおまえの友達じゃねえんだぞ」
「そうね」
 ジルビは素直に頷いた。
「船長、それで、私の質問に対する答えは?」
 ハダリーは指で頬を掻いた。
「……おまえ微妙に偉そうなんだよな……まあいいか。芸術品とかを盗る理由か? そんなの、浪漫だろ浪漫。男の矜持ってやつだよ。あと……」
「あと?」
「おまえほんと嫌なやつな」
 ハダリーはジト目になってジルビを嫌そうに見下ろした。
「褒め言葉ね」
 ジルビはにっこりと笑い返した。
「末っ子はね、我儘で世渡り上手なのよ」
 自分で言うか、とハダリーは肩をすくめる。
「…そういう、人間がまだ花人でなかった頃の、想像力も思考力も常識もちゃんと備えていた頃に残していたものって、人間の人生そのものじゃんか」
 ハダリーは溜息と共に歩き出す。そうして、絵を一つ一つ眺めながらぽつぽつと話し始めた。
「そういう人間の尊厳は、お宝だろ。それを守るやつがいないならオレが盗んだっていいじゃん。だってオレら海賊は、人間のままで居たいんだから――あ、この絵はいいな。頂戴すっか。【水曜日】、これ持ってて」
 ハダリーは壁にかけられていた海の絵の一つを壁から外して、【水曜日】に手渡した。【水曜日】は溜め息をついた後、それを気怠そうに受け取った。ジルビは少し驚いていた。【水曜日】が存外感情豊かだったから。それはどちらかというと、面倒くさいという消極的な感情のようだけれど。どうやら優しいだけの人でもないらしい。今までまるで感情のない人形のようにも見えていた彼が、急に人間らしく見え始めて、ジルビは思わず口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、あたしたちは今から、この船の中にあるお宝で目ぼしいものを保護するのね、船長」
「保護じゃねえぞ、あくまでオレら海賊は自分の私利私欲のために盗んでるだけでえ。つまりは、オレ様の都合な」
 船長という言葉に気をよくしたのか、ハダリーはにやり、と歯を見せて笑った。ジルビの後ろで、【水曜日】が再び深く嘆息した。
「あたしも、何か好きなものあったら持って行っていい?」
「お、海賊らしいねえ。いいんじゃねえの。そういうとこ嫌いじゃない」
「お姉さんなら絶対しないんだけど、あたしは結構強かなの」
「ほ~、そりゃ海賊にとっては心強いな。おまえがもうちっとでかくなったら海賊の女頭になったりしてな」
 からかうようなハダリーの口調に、【水曜日】がくすっとした。ジルビは悪い気はしなかった。元より、ジルビに倫理観というものはあまりないのである。彼女は人里離れた孤村の子供である。
 とはいっても、ハダリーはあまり時間をくれなかった。客船には数えきれないほどの部屋があったというのに、彼が回ったのはその一部に過ぎなかった。
「上から第一等階級、二等階級、三等階級の部屋、ってとこだろうな。一等階級は芸術品やら貴金属やらをしこたま持ってるだろうがオレらにとって貴金属なんぞゴミみたいなもんだ。そしてオレが求めているような所謂万人に愛された名画名作ってのもこういう船には人の出入りの多いフロアに飾られてるもんだ。個人愛蔵物もあるだろうけど、わりいが主人と共に砂海の底深くで眠ってもらうぜ。あとは……オレがほしいのは書物。こういうのは貴族なんぞお高い身分より二等階級の成り上がりが持っているし、日記や新聞なんかは三等階級の持っているものの方がオレら底辺になじみ深いってな。つまり上では芸術品、真ん中で本、下で紙きれをかき集めるって話だ」
 ハダリーは額に汗を滲ませながら声を弾ませて船内を駆け回る。【水曜日】は殆ど荷物持ちで着いてきているようだ。物欲が無いのか、どうでもいいのか、周りにほとんど興味を示さない。ただ、青いものだけはじっと見つめるのだった。
「【水曜日】さんは……青いものが好きなの?」
 意外なことに、【水曜日】は、今まで見たことがないような表情を見せた。顔をしかめて、うげえ、と声まで聞こえてきそうな、いかにも吐きそうな顔。よほど嫌な質問だったのだろうかとジルビは肩をすくめた。
「ごめん、嫌な質問だったかな……」
「別、に」
 結局、ジルビが手に入れた物は、小さな手鏡だけだった。白い螺鈿作りで、儚い菫の花が紫色の宝石で象られて埋め込まれている。「女はこれでもまだ花が好きなのかね」とハダリーが憎まれ口を叩いたから、ジルビは少しだけむっとした。けれどすぐに気を取り直した。ハダリーからすると、本当は花なんてもう見たくもないほど見慣れているのかもしれない。鏡面は埃が積もっているだけで、傷一つなかった。
 甲板に戻ると、船員たちが皮膚に沢山の花弁を纏わりつかせて、沢山の宝石を床に散らかしていた。一人一人の足元には花弁や花が山と積もっている。その中に赤い布が見えて、ジルビはぎょっとした。これは、先刻ちらと見た女性の服ではなかったか。
 そう思って改めてみると、山の下には他にも人の服らしきものが僅かに透けて見えるのだった。そして、薄い皮も。
 ジルビは思わず悲鳴を上げた。瞬間、その口を大きな手で包まれる。【水曜日】がジルビを引き寄せて、声が漏れないようにしてしまった。息苦しさにジルビはもがいた。あの花は、花の実は、宝石は。
 ここにいた人間達の中身ではないのか――なんて。
「どうせ全員ゾンビだ。おまえは気にすんなよ。……って、まあ初めて見るにはショッキングだろうけどな」
 ハダリーはジルビの頭に手をポンと置いて、隣をすり抜けた。ハダリーはひょいと舷梯に飛び乗って愛する船へと帰っていく。ジルビの息遣いが落ち着いた頃、【水曜日】はジルビの身体を器用に肩に乗せたのだった。人間だった者たちを切り刻み、花びらをべたべたと肌に纏わりつかせながらにこにこと無邪気な子供みたいに宝石を搾取する海賊たちが、恐ろしく見えた。ジルビは【水曜日】の背中に顔を押し付けてぎゅっと唇をかみしめた。長い赤毛が、水曜日の黒いマントにばらりと広がって、貼りついた。

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