- なし
# 4
(4)遥②
いくら金持ちとはいえ全国にチェーン展開している定食屋に行くのが初めてだということにも遥は驚いたが、なによりもDNAレベルで自分が選ばれたという事実が衝撃的だった。育った環境や男女とは関係なく、DNAレベルだと言われてしまえば返す言葉もない。だが、政策としては優生の子供を増やすということじゃなかったのだろうか。
けれど、何気なく重ねられた清継の手の温もりに違和感を覚えなかったのは本当だった。むしろ心地よかった。
少し頭を左右に振ってその気持ちを消し飛ばし、バッグを持って立ち上がる。
「ホテルは取ってあるからこの話はまた改めてってことで。離婚の話を進めていこう」
「俺は遥と離婚なんてしねぇからな」
「どれだけややこしい手続きでも、俺は男と寝る趣味はねぇの!」
「……ま、今日のところは取り敢えず。ホテルどこ。車で送るから」
東京の地理にはあまり詳しくない遥はどこか渋々としながらもスマホを開いてマップを差し出す。
「あー、西新宿のほうな。飯田、ここの場所分かるだろ、ホテル前に付けてくれ」
運転手にそう告げ、車がゆっくりと滑り出す。
政略結婚委員会のあの短い会話のために新幹線代とホテル代を使ったと思うと馬鹿らしくなってくる。離婚となるとまだこれから何回も東京に来なければならないのだろう。派手な遊びをする訳でもない遥だったが、こんな無益なことに金を使いたくはなかったが男と結婚しなければならないということを考えると仕方がなかった。いっそ清継にこの金を請求してやりたいとすら思う。いや、違う。国が出すべきだ。
溜め息しか洩れない。なのに目前でゆうゆうと足を組んで機嫌良さそうな笑みを浮かべている男が憎たらしい。
清継にとっては小銭レベルの出費でしかないのだろうが、遥にとってはかなりの痛手だというのに。
そんなことを思っているうちに予約していた安いビジネスホテルの前にロールスロイスが横付けされる。もちろんこんなホテルにベルボーイなどいない。運転手が後部座席のドアを開き、遥の荷物を持って先に進む。
「なあ、遥。俺も部屋に行っていいか」
「嫌だ」
「なにもしないって。どんなところに泊まるのか見てみたいだけだから」
「別に普通のビジホだっつーの。そんなことも知らねぇの?」
「知らんな」
「……はぁ。見るだけだぞ」
フロントで予約した名前を告げて、お決まりの住所と氏名を紙に書いて三〇二号室の鍵を渡される。どうということのないビジネスホテルだ。この手のホテルなら遥は仕事の出張で泊まったことがある。
シングルベッド、ユニットバス、小さいテーブルと冷蔵庫、それぐらいしかない部屋。
薄暗い廊下を進んで慣れた様子で遥は部屋のドアを開くが、清継にとってはなにもかもが新鮮なようであちこちに視線を走らせていた。
「見たいなら好きなだけ見ていいから、見終わったら帰れよ」
「リビングはないのか。ベッドルームもないじゃないか」
「はっ!? ここがベッドルーム! ベッドがあるだろ!」
「いや、こんな犬小屋みたいなところに泊まるのか?」
「ちょっ、おまえ失礼過ぎんだろ」
「うちの嫁にこんなところに泊まらせらんねぇわ。他に行くぞ」
「待て、金ねぇし無理。寝るだけなんだからここで庶民は十分なんだってば」
「壁も薄い。ベッドのマットレスの質が悪い。このバスルームはなんだ、実家の犬でももっとマシな風呂に入ってる」
清継の態度は部屋を蔑む感じではなく、真正直に本気でそれを告げているようだった。遥が手にしていたバッグを奪い、腕を引いて部屋を出ると、さっき登ってきたばかりのエレベーターに乗り込み再びフロントに戻る。
「支払いを頼む」
「えっと……はい……しかし、新幹線出張パックでホテル代も込みになっておりますので」
「あー、もう、わけが分からん。金は必要ないんだな」
「は、はい」
「手違いがあったら遥が困る。なにかあったらここに連絡してくれ」
そう言って自分の名刺をフロント係に手渡すと、もう終わったとばかりにビジネスホテルを二人して出ていく羽目になった。
「あのホテルに不手際があったとは言わないが、俺の嫁があんな狭い部屋で泊まることは許せない」
「だ、だから嫁って言うなって言ったろ!」
「じゃあ、遥がもっといいホテルに泊まることを望んでるって言えばいいんだろ。飯田、いつものホテルに行ってくれ」
「だから、金が無いって言ってんだろ。庶民の暮らしのこと、もっと考えてくれ」
「……ふむ。じゃあ遥が教えてくれ。ホテル代は俺が出す。気心の知れたホテルだから緊張しなくてもいい」
清継と出会ってからもう何度ついたかもしれない溜め息を遥は零す。まったく常識が通じない。さっきのビジネスホテルも清潔感があり特に悪いところもなかった。都内で、しかもパック料金内で交通の便も良かった。
(世間知らずのお坊ちゃんの生活ってこんななのかよ……)
もう反論する気にもならない。ホテル代金を出してくれるという言葉を信じて、乗り心地のいい車の総革張りのシートに身を沈めて、遥はもう一度溜め息をついた。
車がホテルの玄関らしきところに滑り込んだのは、高層ビル的なホテルと思いきや、都内だというのに広い庭と二階建てぐらいだろうか物静かであるがいかにも高級感のある別荘のようなホテルだった。
玄関先にはすでに数人の和服の従業員が深々とお辞儀をして二人を迎える。
清継が遥のバッグ──合皮の三千円税抜──をその従業員の一人に手渡すと、従業員もまた恭しくそれを受け取った。中身は三枚千五百円のボクサーパンツと、九百八十円のTシャツ、明日の替えのシャツ程度しか入っていないものをそんなに丁寧に扱われてもむしろ困る。
「部屋の用意は出来てるか。庭のよく見える俺がいつも泊まる部屋だ」
「はい、いつもご利用ありがとうございます。いつものお部屋をご用意しております。ウエルカムシャンパンをお持ちしましょうか? ソフトドリンクや軽食もご用意出来ますが?」
「食事はしてきたからいい。遥は酒は嗜むのか?」
「あ、うん。ちょっとなら」
「じゃあシャンパンを」
「かしこまりました」
まるで自宅に帰ってきたような当然といった態度に驚かざるを得なかった。
本物の大理石の床と広く静かなロビー。どれだけ常連なのだろう、皆が清継に深々と頭を下げ、部屋を案内されるまでもなく前を歩く従業員を追い越しそうな勢いで部屋へと向かっていく。
中庭が見える総ガラス張りの窓からライトアップされた、丁寧に剪定された木々と季節の草花に見惚れて遥が足を止める。
「綺麗だろう、俺の気に入ってるホテルだ。ベッドルームからも違う角度からこの庭が見えるからな」
「つっても……清継と泊まる気はないからな……」
「ははっ、まだ会って二度目だ。そんな無粋なことはしねぇよ。初夜は新婚旅行ついでにもっと豪華なホテルで迎えようか。遥は海外ならどこがいい?」
「だから離婚するっつってんだろ! いい加減、俺の話を聞けよ!」
「DNAレベルの話だぞ。しかも国が決めた相手だ。それともいま付き合ってる恋人でもいるのか?」
「い、いねぇけど……」
「取り合いする手間がなくて安心した。ほら、部屋に向かうぞ。シャンパンぐらいは飲んでいっていいだろ」
「ま……それぐらいなら」
「カードをフロントに預けてあるから、夜中に腹が空いたらルームサービスを適当に頼めばいい。朝にまた迎えに来る。新幹線の時間があるんだろう? なんなら車で家まで送る」
「いいっ! 新幹線で帰るっ!」
「遥は頑固だな。そういうところも可愛いけどな」
豪快に笑いながら部屋に案内され、カードキーで部屋を開いて貰い、マニュアルだろう従業員が部屋の説明をしようをするのを、もう分かっているというように清継が手で制するとお辞儀をして彼女は部屋を出ていった。
二人きりになったことに戸惑いを隠せないけれど、すぐに部屋のドアがノックされシャンパンが届けられたことに僅かに遥は安堵し、取り敢えずソファに座ってグラスを持つ。乾杯などする気にはもちろんならず一口飲む。シャンパンは友人の結婚式などで飲みはしたが、これほど味が違うのかと思うぐらい美味かった。
移動や政略結婚委員会でのやり取りで疲れていたせいもあったのか、アルコールが身体の隅々に染み渡るようだった。
ソファの隣に清継が座ったが、もう文句を言う元気もほとんどない。
「ここのホテル代払うし……借り作りたくねぇから」
「払いたいなら黙って貰うけど、身体で払ってくれてもいいんだぜ?」
「……も、いま疲れてっからそういうの止めろ」
「体力ねぇのな。遥が疲れてるなら少し黙ってるよ」
二人で黙ってシャンパンのグラスを傾ける。
たった二度しか会ったことのない相手。しかも国から勝手に認定された結婚相手。よりよってそれも男。生活環境も、育ちも、なにもかもが違う。こんな高級ホテルに泊まるのも初めてだった。
ホテルに対して驚きはしたが、隣に座る清継の存在に違和感がないのはなぜだろう。
「なあ、清継。いくらDNAだとか政略結婚だからって男を抱けんの?」
「遥が俺を抱きたいの」
「そういう話じゃねぇよ。ゲイでもバイでもないんだろ。勃起すんのかよ」
「試してみるか? 初夜まで楽しみは取っておこうと思ったんだが」
「……もういい。この話は無し」
「もっと夫婦らしい話でもするか」
「どんなよ」
「子供が何人欲しいとか」
「産めるかよ! バカか!?」
「ははっ、やっぱり遥は可愛いな。じゃあもし子供が出来たらって話じゃねぇか。男がいい? 女の子がいいのか?」
「……男の子、かな。一緒にサッカーとかしてぇし」
「俺は女の子がいいねぇ、宝石みたいにいつもピカピカにして可愛がってやりたい」
なんとなくそんな口調が微笑ましく思えた。
清継の言葉は嘘ではないだろう。もし子供が男でも女でも猫可愛がりするはずだ。金銭の使い方はともかくとして、惜しみなく愛情を注ぐタイプの男だった。その大きな体躯に小さな子を抱き締めて満面の笑みで慈しむ姿が目に見えるようだった。
こんな男の許で愛されれば……。
(って、なに思ってんだ、俺。離婚しにきたんだろうが!)
グイッとシャンパンを一気に飲み干して、空になったグラスをテーブルの上に置く。
「シャワー浴びて寝る。東京の地理とかあんまわかんねぇから、駅まではフロントの人に聞くし大丈夫。早めに帰れたら仕事にも行きたいし」
「せめて車ぐらい新幹線の駅まで行けるように寄越すって」
「いい。ここのホテル代がいくらか知らないけど、清継の会社に電話して聞く」
「それはいい。ここに泊まれって言ったのは俺だ。疲れただろうからゆっくりしてくれ。窓からの庭の景色は絶品だからな」
「……ん」
「おやすみ」
清継もまたシャンパンを飲み干すと、ソファから立ち上がりどこか人懐こい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
強引にキスをされたり抱き締められたりすれば強気に拒めるが、むしろあっさりと身を引かれると言い返す言葉も出せずに戸惑ってしまう。話を聞かない男のはずなのに、遥の身体を気遣ってくれているのが分かった。
「もうなんなんだよ……政略結婚って。こんな生活レベルの違う人間が一緒に生活出来るはずねぇっつの。いやいやいや、その前に男同士だし! あー、風呂入って寝よ……」
バスルームは自宅の自分の部屋ほどある広さだった。ジャグジーと間接照明、窓ガラスも庭に向いていてそれを眺めながら風呂を楽しめる。
(離婚する方法。法律に詳しい……あ、いるじゃん!)
勢いと早い流れでその存在を忘れていた。法律事務所で働いている、幼馴染の鈴木浩太郎(すずきこうたろう)のことを。
けれど、何気なく重ねられた清継の手の温もりに違和感を覚えなかったのは本当だった。むしろ心地よかった。
少し頭を左右に振ってその気持ちを消し飛ばし、バッグを持って立ち上がる。
「ホテルは取ってあるからこの話はまた改めてってことで。離婚の話を進めていこう」
「俺は遥と離婚なんてしねぇからな」
「どれだけややこしい手続きでも、俺は男と寝る趣味はねぇの!」
「……ま、今日のところは取り敢えず。ホテルどこ。車で送るから」
東京の地理にはあまり詳しくない遥はどこか渋々としながらもスマホを開いてマップを差し出す。
「あー、西新宿のほうな。飯田、ここの場所分かるだろ、ホテル前に付けてくれ」
運転手にそう告げ、車がゆっくりと滑り出す。
政略結婚委員会のあの短い会話のために新幹線代とホテル代を使ったと思うと馬鹿らしくなってくる。離婚となるとまだこれから何回も東京に来なければならないのだろう。派手な遊びをする訳でもない遥だったが、こんな無益なことに金を使いたくはなかったが男と結婚しなければならないということを考えると仕方がなかった。いっそ清継にこの金を請求してやりたいとすら思う。いや、違う。国が出すべきだ。
溜め息しか洩れない。なのに目前でゆうゆうと足を組んで機嫌良さそうな笑みを浮かべている男が憎たらしい。
清継にとっては小銭レベルの出費でしかないのだろうが、遥にとってはかなりの痛手だというのに。
そんなことを思っているうちに予約していた安いビジネスホテルの前にロールスロイスが横付けされる。もちろんこんなホテルにベルボーイなどいない。運転手が後部座席のドアを開き、遥の荷物を持って先に進む。
「なあ、遥。俺も部屋に行っていいか」
「嫌だ」
「なにもしないって。どんなところに泊まるのか見てみたいだけだから」
「別に普通のビジホだっつーの。そんなことも知らねぇの?」
「知らんな」
「……はぁ。見るだけだぞ」
フロントで予約した名前を告げて、お決まりの住所と氏名を紙に書いて三〇二号室の鍵を渡される。どうということのないビジネスホテルだ。この手のホテルなら遥は仕事の出張で泊まったことがある。
シングルベッド、ユニットバス、小さいテーブルと冷蔵庫、それぐらいしかない部屋。
薄暗い廊下を進んで慣れた様子で遥は部屋のドアを開くが、清継にとってはなにもかもが新鮮なようであちこちに視線を走らせていた。
「見たいなら好きなだけ見ていいから、見終わったら帰れよ」
「リビングはないのか。ベッドルームもないじゃないか」
「はっ!? ここがベッドルーム! ベッドがあるだろ!」
「いや、こんな犬小屋みたいなところに泊まるのか?」
「ちょっ、おまえ失礼過ぎんだろ」
「うちの嫁にこんなところに泊まらせらんねぇわ。他に行くぞ」
「待て、金ねぇし無理。寝るだけなんだからここで庶民は十分なんだってば」
「壁も薄い。ベッドのマットレスの質が悪い。このバスルームはなんだ、実家の犬でももっとマシな風呂に入ってる」
清継の態度は部屋を蔑む感じではなく、真正直に本気でそれを告げているようだった。遥が手にしていたバッグを奪い、腕を引いて部屋を出ると、さっき登ってきたばかりのエレベーターに乗り込み再びフロントに戻る。
「支払いを頼む」
「えっと……はい……しかし、新幹線出張パックでホテル代も込みになっておりますので」
「あー、もう、わけが分からん。金は必要ないんだな」
「は、はい」
「手違いがあったら遥が困る。なにかあったらここに連絡してくれ」
そう言って自分の名刺をフロント係に手渡すと、もう終わったとばかりにビジネスホテルを二人して出ていく羽目になった。
「あのホテルに不手際があったとは言わないが、俺の嫁があんな狭い部屋で泊まることは許せない」
「だ、だから嫁って言うなって言ったろ!」
「じゃあ、遥がもっといいホテルに泊まることを望んでるって言えばいいんだろ。飯田、いつものホテルに行ってくれ」
「だから、金が無いって言ってんだろ。庶民の暮らしのこと、もっと考えてくれ」
「……ふむ。じゃあ遥が教えてくれ。ホテル代は俺が出す。気心の知れたホテルだから緊張しなくてもいい」
清継と出会ってからもう何度ついたかもしれない溜め息を遥は零す。まったく常識が通じない。さっきのビジネスホテルも清潔感があり特に悪いところもなかった。都内で、しかもパック料金内で交通の便も良かった。
(世間知らずのお坊ちゃんの生活ってこんななのかよ……)
もう反論する気にもならない。ホテル代金を出してくれるという言葉を信じて、乗り心地のいい車の総革張りのシートに身を沈めて、遥はもう一度溜め息をついた。
車がホテルの玄関らしきところに滑り込んだのは、高層ビル的なホテルと思いきや、都内だというのに広い庭と二階建てぐらいだろうか物静かであるがいかにも高級感のある別荘のようなホテルだった。
玄関先にはすでに数人の和服の従業員が深々とお辞儀をして二人を迎える。
清継が遥のバッグ──合皮の三千円税抜──をその従業員の一人に手渡すと、従業員もまた恭しくそれを受け取った。中身は三枚千五百円のボクサーパンツと、九百八十円のTシャツ、明日の替えのシャツ程度しか入っていないものをそんなに丁寧に扱われてもむしろ困る。
「部屋の用意は出来てるか。庭のよく見える俺がいつも泊まる部屋だ」
「はい、いつもご利用ありがとうございます。いつものお部屋をご用意しております。ウエルカムシャンパンをお持ちしましょうか? ソフトドリンクや軽食もご用意出来ますが?」
「食事はしてきたからいい。遥は酒は嗜むのか?」
「あ、うん。ちょっとなら」
「じゃあシャンパンを」
「かしこまりました」
まるで自宅に帰ってきたような当然といった態度に驚かざるを得なかった。
本物の大理石の床と広く静かなロビー。どれだけ常連なのだろう、皆が清継に深々と頭を下げ、部屋を案内されるまでもなく前を歩く従業員を追い越しそうな勢いで部屋へと向かっていく。
中庭が見える総ガラス張りの窓からライトアップされた、丁寧に剪定された木々と季節の草花に見惚れて遥が足を止める。
「綺麗だろう、俺の気に入ってるホテルだ。ベッドルームからも違う角度からこの庭が見えるからな」
「つっても……清継と泊まる気はないからな……」
「ははっ、まだ会って二度目だ。そんな無粋なことはしねぇよ。初夜は新婚旅行ついでにもっと豪華なホテルで迎えようか。遥は海外ならどこがいい?」
「だから離婚するっつってんだろ! いい加減、俺の話を聞けよ!」
「DNAレベルの話だぞ。しかも国が決めた相手だ。それともいま付き合ってる恋人でもいるのか?」
「い、いねぇけど……」
「取り合いする手間がなくて安心した。ほら、部屋に向かうぞ。シャンパンぐらいは飲んでいっていいだろ」
「ま……それぐらいなら」
「カードをフロントに預けてあるから、夜中に腹が空いたらルームサービスを適当に頼めばいい。朝にまた迎えに来る。新幹線の時間があるんだろう? なんなら車で家まで送る」
「いいっ! 新幹線で帰るっ!」
「遥は頑固だな。そういうところも可愛いけどな」
豪快に笑いながら部屋に案内され、カードキーで部屋を開いて貰い、マニュアルだろう従業員が部屋の説明をしようをするのを、もう分かっているというように清継が手で制するとお辞儀をして彼女は部屋を出ていった。
二人きりになったことに戸惑いを隠せないけれど、すぐに部屋のドアがノックされシャンパンが届けられたことに僅かに遥は安堵し、取り敢えずソファに座ってグラスを持つ。乾杯などする気にはもちろんならず一口飲む。シャンパンは友人の結婚式などで飲みはしたが、これほど味が違うのかと思うぐらい美味かった。
移動や政略結婚委員会でのやり取りで疲れていたせいもあったのか、アルコールが身体の隅々に染み渡るようだった。
ソファの隣に清継が座ったが、もう文句を言う元気もほとんどない。
「ここのホテル代払うし……借り作りたくねぇから」
「払いたいなら黙って貰うけど、身体で払ってくれてもいいんだぜ?」
「……も、いま疲れてっからそういうの止めろ」
「体力ねぇのな。遥が疲れてるなら少し黙ってるよ」
二人で黙ってシャンパンのグラスを傾ける。
たった二度しか会ったことのない相手。しかも国から勝手に認定された結婚相手。よりよってそれも男。生活環境も、育ちも、なにもかもが違う。こんな高級ホテルに泊まるのも初めてだった。
ホテルに対して驚きはしたが、隣に座る清継の存在に違和感がないのはなぜだろう。
「なあ、清継。いくらDNAだとか政略結婚だからって男を抱けんの?」
「遥が俺を抱きたいの」
「そういう話じゃねぇよ。ゲイでもバイでもないんだろ。勃起すんのかよ」
「試してみるか? 初夜まで楽しみは取っておこうと思ったんだが」
「……もういい。この話は無し」
「もっと夫婦らしい話でもするか」
「どんなよ」
「子供が何人欲しいとか」
「産めるかよ! バカか!?」
「ははっ、やっぱり遥は可愛いな。じゃあもし子供が出来たらって話じゃねぇか。男がいい? 女の子がいいのか?」
「……男の子、かな。一緒にサッカーとかしてぇし」
「俺は女の子がいいねぇ、宝石みたいにいつもピカピカにして可愛がってやりたい」
なんとなくそんな口調が微笑ましく思えた。
清継の言葉は嘘ではないだろう。もし子供が男でも女でも猫可愛がりするはずだ。金銭の使い方はともかくとして、惜しみなく愛情を注ぐタイプの男だった。その大きな体躯に小さな子を抱き締めて満面の笑みで慈しむ姿が目に見えるようだった。
こんな男の許で愛されれば……。
(って、なに思ってんだ、俺。離婚しにきたんだろうが!)
グイッとシャンパンを一気に飲み干して、空になったグラスをテーブルの上に置く。
「シャワー浴びて寝る。東京の地理とかあんまわかんねぇから、駅まではフロントの人に聞くし大丈夫。早めに帰れたら仕事にも行きたいし」
「せめて車ぐらい新幹線の駅まで行けるように寄越すって」
「いい。ここのホテル代がいくらか知らないけど、清継の会社に電話して聞く」
「それはいい。ここに泊まれって言ったのは俺だ。疲れただろうからゆっくりしてくれ。窓からの庭の景色は絶品だからな」
「……ん」
「おやすみ」
清継もまたシャンパンを飲み干すと、ソファから立ち上がりどこか人懐こい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
強引にキスをされたり抱き締められたりすれば強気に拒めるが、むしろあっさりと身を引かれると言い返す言葉も出せずに戸惑ってしまう。話を聞かない男のはずなのに、遥の身体を気遣ってくれているのが分かった。
「もうなんなんだよ……政略結婚って。こんな生活レベルの違う人間が一緒に生活出来るはずねぇっつの。いやいやいや、その前に男同士だし! あー、風呂入って寝よ……」
バスルームは自宅の自分の部屋ほどある広さだった。ジャグジーと間接照明、窓ガラスも庭に向いていてそれを眺めながら風呂を楽しめる。
(離婚する方法。法律に詳しい……あ、いるじゃん!)
勢いと早い流れでその存在を忘れていた。法律事務所で働いている、幼馴染の鈴木浩太郎(すずきこうたろう)のことを。
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