著者 有沢楓
  • なし
# 9

第8話 人質ふたり/第9話 挿話・王宮、廊下

 ヴィオレッタはあれから、仕事をするふりを覚えた。免罪書の仕事は思うより時間がかからなかったから、母親について調べる時間は十分に捻出できた。

 今まで母親の命が自分にかかっているのだと、さぼるなど考えられなかった。仕事を淡々とこなしていればいつか良い方向に行くかもしれないと、諦念の中、自覚のないままありもしない希望にすがっていたのだろう。

 今は逆に、仕事以外の色々なことを考えすぎてしまう。ともすれば朝はシーツの泥濘に埋もれてしまうくらい、体は重い。
 それでも偽名なくせに真剣なミケーレの眼差しと義兄からの手紙を思い出して、彼女は自身を鼓舞する。

(お母様は私とオルシーニ家の人質、だった。彼の言う通りなら、このまま死ぬまで修道院に利用されるだけ)

 母親からの手紙を握りしめ写字塔の心当たりのある本を片っ端から開いていく。
 母親に何が起こったにせよ、性格からいって痕跡を残してくれている筈だった。
 写本は納品されて残らないが、残してくれた教本はある。それらを繰るうちに、インクの色が手紙と一致するものを見付ける。

「これは装飾を練習し始めた頃の本」

 ヴィオレッタが一通りの基礎を学んで写本用の文字カリグラフィーを書けるようになり、装飾としての美麗な線や絵、彩色を学んでいる時のものだ。
 母親が書いた飾り枠や着色などの見本と注意書き。手紙のインクはそれとほぼ同じ、ヴィオレッタが15歳頃、7年程前のことだ。
 母親と面会できなくなったのは、この本を貰った少し後のことだった。

「……でも何か違う?」

 机に置いた本と手の中の手紙を慎重に見比べれば、手紙の中にひとつ、インクの色が違う文字と書き損じがある。
 少なくとも母親は書き損じの悪魔ティティヴィラスから嫌われていたし、誤りがあれば必ず訂正したはずだ。

 急いでベッドの上に今までの手紙を広げて一望すると、幾つかの手紙のうちにインクの違う文字が混じっていた。必ず一枚に一文字だけ。
 娘のヴィオレッタでも意識的に観察しなければ判別できないくらいの微妙な違いだ。
 そのほかにもちらほらと、文字の線の長短や綴りの間違いがある。

 インクの違う文字と誤字とを、それぞれ手紙を貰った順に並べ替えれば、ふたつの文章が浮かび上がる。

(これが、お母様が殺された理由? それとも全く関係がない修道院の暗部?)

 嫌な想像ばかりが頭に浮かび、首を振って追い払う。推測と妄想は違う。
 文章を急いで紙に書き留めていると、背後でノックの音がした。

「……っ、はい」

 急いで手紙を箱に、メモを懐にしまってからおもちゃのような閂を摘まんで外せば、そこには昼食をトレイに乗せた修道女が待っていた。

「内鍵をかけるとは珍しいですね、王女様」

 ドアを確かめられずとも鍵を外す音は、聞こえていたらしい。
 疑われなかっただろうかとちらりと表情を伺うが、何を考えているのかは杳として知れなかった。

「仕事に、集中、したくて」

 そう言いつつ、ざらりとした感触が彼女の胸の底を撫でる。
 王女様とそう呼ばれることに、前よりももっと居心地の悪さを感じ始めていた。
 ここに来たばかりの頃は嫌ってすらいた呼び方だったことを思い出してしまったのは、偽名の神殿騎士が来たからだ。

 勿論、単に自分がミケーレと実家に利用されているだけなのかもしれない、という疑いは完全に拭えない。けれど、それだけとも思えなかった。
 ……どちらにせよ自分は母親について確かめなければならない。

「お義兄様も心配されて、いたので。今日は私が、お母様に食事を」
「そのような雑事は私がしますよ、王女様」

 返ってくる言葉に曖昧に薄く笑って。
 ヴィオレッタは、優しげな微笑を作った修道女を罵ってしまいたい気持ちを押さえつける。
 ……小さなパンとスープは、いつも誰の腹に入っていたのだろう。

「今日は、お義兄様からの、手紙のことで、どうしても、お返事を、もらいたくて」

 普段より饒舌なことに違和感は持たれただろうか。怒りと疑問に動悸が早くなり、慣れないことに息苦しさを覚えながら言い募る。

「そうですか……ええ、構いませんよ。ではお母様の分を取りに行ってきますから、お待ちください」

 驚いた顔をしてから、ヴィオレッタの希望を通すのは、彼女に疑いを持たれないためなのか。

(疑い出すときりがない……)

 修道女は届ける食事を用意してくれたものの、ヴィオレッタの少し後ろをぴったりついてくる。
 ヴィオレッタはトレイを運ぶ短時間に器の中の食事を観察した。彼女のものとたいして変わりのないパンとスープ。
 あえて彼女の量だけ減らしていないのなら、そしてもし母親が生きていないのなら、これは中で誰かが食事する分。
 そう思うと、いくら国境の修道院とはいえ、戦況や王国の状況が芳しくないというのも頷ける。

「……お母様、ヴィオレッタです。食事をお持ちしました」

 何度も訪ねた扉の前で声を掛けるが、当然のように開かない。
 少しでも開けば、部屋の様子が――何か手がかりが見られるかと思ったが、そう上手くはいかないのか。

「王女様、今日はお母様のお加減が悪いのでは? 置いてくだされば、見計らって入れておきます」
「……お願いします。……お母様、」

 ヴィオレッタは修道女に渋々トレイを託して、

「お手紙をください」

 言葉と間を置かずに、いつものように手紙が扉の下部から差し出される。

(何でおかしいと思わなかったのかな。よく考えたら、こんな短い間にそうそう何行も書ける筈ないのに)

 手紙に指を滑らせれば、さらさらとした感触だけだ。指の腹を見つめてもインクは付きもしない。完全に乾いている。

(知ってた筈だったのに。事前に用意しているとしても、体調がいい時に書いてくれているんだ、くらいに思って。自分をごまかしてた)

 ヴィオレッタは再び喉に力を入れる。

「もう一枚、今ください。お義兄様はいつも案じていました。どうかお義兄様へお手紙をお願いします。……ほら以前お母様が、オルシーニ家におられたころ足を怪我された時の傷が、時折痛むと仰っていたでしょう。大丈夫と一言だけでも」
「王女様」

 修道女の咎めるような声に、しかしヴィオレッタは今日は退かずに扉を見つめれば再度手紙が隙間から差し出された。

「……ありがとうございます、お母様」

 紙片に大丈夫とだけ書かれた、インクの乾いていない手紙。
 目の端に涙が滲む。

「良かったですね、王女様」
「はい、ありがとうございます」

 憐れみを修道女の目に見付けて、頷く。
 急いで、インクが付着しないよう慎重に、抱くようにして写字塔に戻り、見直す。

「ああ……やっぱり、そうだったんだ」

 筆跡は似せてあるものの、違うもの。
 インクは今、ヴィオレッタが支給されているものと同じ色。
 母親は、傷が痛むなんて言ったことはない。

「……そう、お母様はもう……」

 ――あの扉の向こうにいたのは、母でなければ誰が? 死体が?
 手紙は生前、何通書き溜めさせられていたのだろう、まだあるのだろうか。調子が悪いと言って帰ってこなかった日は、調節されていただけ?

「……親不孝をお詫びします」

 ヴィオレッタが母の死を確信するのに、この手紙で十分だった。
 食事を見直せば、そこに母親の部屋に運ばれているスープの中にはなかった、根っこのような野菜を見付け、木匙でそれを掬い上げる。

 そのまますぐに植物を描くための資料をめくれば、それは多分、胃腸に影響がある毒草だ。

(自分がお母様の人質であったように、私にとってお母様が人質で……)

 残された母親からの暗号の内容は、ふたつだった。
 一つはヴィオレッタとオルシーニの家族へ、先に逝くことへの謝罪。
 もう一つは黒いベラドンナの栽培と毒の精製を修道院が行っていること。

 唯一外に開かれているベランダから器の中身を投げ捨ててから、ヴィオレッタはようやく頬を何かが濡らしていることに気付いた。

 内海を見渡し、帆船を遠くに見て――突き上げる、身投げの衝動を感じながら、これを実家に伝えなければならない自分に、初めて絶望を感じていた。

 義父も義兄も彼女を恨むかもしれない。そんなことを母がさせるのは残酷に思えた。娘が受け入れられると本当に信じていたのだろうか。
 いやそうではなく、息子を娘より優先したのかもしれない。会えない夫との息子を。

(……ぐちゃぐちゃだ)

 母親は何をさせたかったのだろうか。
 何を信じればいいのだろうか。

 ――だからあの硝子戸には、開かないように鍵でも付けた方がいい。飛び込んで欲しそうだからね、くせ者の修道院長は。

 ふと、ミケーレの言葉が思い出されて、ヴィオレッタは遠い地面に引き込まれないように、後ずさった。
 ゆらりと体を揺らして室内に入る。
 そうして、ベランダと反対側の、石材の壁にもたれ掛かった。



■第9話 挿話・王宮、廊下

「待てよ、兄上」

 王宮の中庭に面した回廊は広々として、すれ違うのに支障はない。それでも敬意を示そうとすれば立ち止まり、時には礼をすべきだ――こと相手が王太子となれば。
 アマデオ王太子が数人の護衛に囲まれてなお怯えた表情で、弟と視線も合わせず俯いたまま通り過ぎようとしても非難されるべきではなかった。

 だから礼を失した声を掛けた第二王子エドアルドはそこで自制するべきだったが、兄につかつかと近寄っていく。
 王太子の護衛たちが制しようとするのをにらみつけた。

退け」

 王太子の護衛は勿論だが、エドアルドと彼が連れている護衛もまた剣を佩いている。王太子たちの持つかたちばかりの美麗な柄ではなく、実際に前線で血を吸った、使い込まれたそれが。

「……」
「退けと言っている!」

 エドアルドの声は叫びという程の声量はなかったが、伴う気迫は戦地でまとうものだった。
 気圧される護衛の間を縫って王太子の真正面に立つと襟首をつかみ、大理石の壁まで押していく。

「兄上は今度の出兵に反対されたそうだな。おまけに近衛も勝手に使って自分の宮殿を手厚く警備だなどと、そのような臆病者で王太子が務まるものか。さっさと明け渡せ」
「あ……あれは……」

 アマデオの両手がエドアルドの胸板を押し返すようにするが、ぴくりとも動かない。

「王都の暖炉の前で数える金を持ってきたのはどこの誰だ? 各地の鎮圧は? 寒さに震える兵らが血を流している間、お前は何をしていた?」
「エドアルド、暴力は……」
「は、こんなもの、ものの数にも入らんだろう? 父上が、どれだけの俺に味方する貴族だの妾だのの屍を積み上げた上にお前の椅子を置いたものだか。さぞぐらぐらしているだろうな。
 最近では父上の女遊びに反対する伯母上の病状が、いよいよ芳しくないと聞いている」
「証拠など見つかるはずが」
「そうだろうな、証拠はない。この国に無味無臭の毒など存在しない……何故父上は兄上を王太子などに……」

 エドアルドはアマデオの目を覗き込む。自分よりも濃く輝く金の瞳に次第に耐えられなくなったのか、ぱっと手を放すとアマデオはずるずると床に座り込んだ。

「痴れ者らが」

 吐き捨てると、エドアルドは勲章が付いた胸元のポケットをはたく。
 慌ててアマデオに駆け寄る王太子の護衛に向かっての言葉でもあっただろう。

「……出兵は二か月後だ。せいぜいそこで何がなされるか見ているがいい」

 冷ややかな視線と言葉だけ残し、エドアルドは自らの護衛と共に訓練場へ続く廊下を歩き始めていた。
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