- なし
# 2
episode 2/2
翌朝。母から連絡を受けて、美佳さんが入院しているという話を聞いた。学校が終わったら顔を見せに来て欲しいと。その瞬間、ぼんやりとしていた頭が殴られたような衝撃を受けた。余計なことが全部頭から吹き飛んで、美佳さんが入院しているという場所を聞いた。外出の支度もそこそこに、弾かれたように家を飛び出して学校ではなく病院へ向かった。
最近、美佳さんを見なかった。私が二人を意図的に避けていたということもあるけど、それでも外へ出ると拓海さんを見かけることは何度もあったのに。いつも一人でどうしたんだろうなんて思っていたけど、声をかけることもできなくて回り道をしていた。でもこれで理由が分かった。美佳さんが入院していたから一人だったんだって。
一時間ほどかけて病院に到着した。受付で美香さんがいる病室を聞いて、はやる心を抑えながら病室へ向かう。病室の番号を確かめて、静かに扉を開け中に入った。
「美香、さん……」
しんと静まり返った病室のベッドの上で、美香さんは眠っていた。酸素吸入器をつけられていて、以前とは比べ物にならないくらいやつれている。もともと細身だったのにさらに痩せていて腕や手は折れてしまいそうなほどに細く、艶やかだった髪も酷くパサついていて痛々しい。たった数ヵ月会わなかった間に美香さんの身に何があったのだろうか。
ベッドの傍にある椅子にそっと腰を下ろす。顔を見せて欲しいと言われたが、何だか起こしてしまうのは気が引ける。このまま静かに待っていて、美佳さんが起きなければまた日を改めよう。そう思い、美佳さんをじっと眺める。あまりの変貌ぶりにもう目を覚まさないのではないかと心配になるが、微かに上下する胸を見てほっと安堵した。
それにしても、入院をしているのならもっと早く教えてほしかった。きっと美香さんのことだから心配させないようにと気を遣ってくれたのだろうけど。それでも水臭いというかなんというか。蚊帳の外にいるみたいで少しだけ寂しい。そんな気持ちを紛らわせるように、スカートの裾をぎゅっと強く握って俯いた。
「雪菜ちゃん……?」
不意に、美佳さんの声が耳に届いた。ハッと顔をあげると、いつの間にか目を覚ましていた美香さんと目が合った。「来てくれてありがとう」と言いながら身体を起こそうとする美香さんを慌てて止めた。横になったままで大丈夫だと伝えると、美香さんは困ったように笑って謝る。そんなこと気にしないのに。
「びっくりしましたよ。美香さんが入院してたなんて……」
「ごめんね。心配かけたくなくて……」
「だと思いました。美香さんはいつも自分のことより他人のことばっかり考えるんですから」
椅子をベッドに近づけて、美佳さんの手を握る。弱々しく握り返してくれたが、その儚さに心の痛みが増す。病気について踏み込んだことを聞いていいのか迷った挙句、美佳さん自身から話してくれるまで待つことに決めた。重い沈黙が場を支配する。それでもじっと我慢して、美佳さんが口を開いてくれるのをただ待った。
「あのね……私、癌なの」
美香さんからの突然の告白に、頭の中が弾けたように真っ白になった。え? と聞き間違いを祈って聞き返すことしかできかなった。だけど、そんな私を意に介した様子もなく、美佳さんは話を進めていく。
「もう末期でさ。長くてあと二ヶ月くらいだって」
まるでガラスの塔が倒れたような。ガラス玉が弾け飛んだような。頭の中に大きな音が響き渡る。脳の処理が追いつかず、なんで、と自分でも意味が分からない言葉がこぼれた。なんでなんて。そんなの誰も分かるわけないのに。もしそれが分かるなら、一番知りたいのは美香さんの方なのに。馬鹿みたいだ。
「死ぬのは怖くないよ。だって私は誰よりも幸せだったから」
「死ぬなんて、そんなこと、言わないでください……」
私が必死に絞り出した言葉を聞いて、優しく微笑む美佳さん。やつれてしまっているけど、昔と変わらない素敵な笑顔。自分のことなのに、まるで他人事のように。
「でもね? ひとつだけ心残りがあるの」
美香さんはどこか遠くを見るように、私から天井へ視線を移した。
「雪菜ちゃん」
「……はい」
少しの沈黙のあと、美佳さんは再び私の目を真っ直ぐに見る。
「私がいなくなったら……拓海のこと、雪菜ちゃんにお願いしてもいいかな?」
美香さんが放った言葉の意味が理解できなかった。私が固まったまま何もできないでいると、美佳さんがふふっと笑った。優しさではなくからかうような悪戯な笑顔。
「雪菜ちゃん、昔から拓海のこと好きでしょう?」
「そ、そんなこと……」
「隠さなくてもいいのよ。雪菜ちゃんのことは生まれたときから知ってるもの。だから言わなくても分かる。そんな雪菜ちゃんだからこそ、お願いしたいの」
拓海さんを幸せにするのは美香さんの役目だから。せっかく諦めようとしていたのに。そんな風に言われてしまったら、また淡い希望に火が灯されてしまう。こんなときにそんなことを考えてしまうなんて、自分で自分が嫌になる。気がつけば堪えきれず、涙をぽろぽろと流していた。
「私は美香さんがいなかったらいいなんて今まで一度も思ったことない……!」
「雪菜ちゃん……?」
「拓海さんのことは好きだけど、私は美香さんのことも好きだから……。二人には幸せになって欲しくて、それで、だから、ちゃんと諦めようとしてたのに……。なんで、なんでそんな風に言うんですか……!」
美香さんは何も言ってないし、何も悪くないのに。自分の恋心を成就させるために恋敵にいなくなって欲しいなんて考えたことないのに。諦めると決めたのに、また希望を抱き始めている自分がどうしようもなく嫌だ。これじゃあ私がまるで最低の女だと言われているみたいだったから。そんな悪魔みたいな女にはなりたくない。そんな女になるくらいだったら、いっそ消えてしまいたいとさえ思う。
「だからよ」
握っている手を引かれ、美佳さんに抱き寄せられた。
「雪菜ちゃんがそう思ってくれているように、私たちもアナタのことが大好きなの。だから雪菜ちゃんにも幸せになってほしいって思ってる。私は十分幸せになれたから。だから次は雪菜ちゃんが幸せになる番でしょう? だからお願い」
それでも私は何も答えることができず、ただ美佳さんの胸でわんわん泣いていた。
◆◆◆
それから一ヵ月後。美香さんは眠るようにして息を引き取った。これは母から後で聞いた話だけど、美佳さんが癌であることは随分前から分かっていたそうだ。早期発見ではなかったものの、治療をすれば治る可能性はあったという。でも、どうしてか美佳さんは頑なに治療を拒み続けており、残りの短い人生を好きに生きたいと拓海さんに訴えていたそうだ。
治療に従事したとしても、闘病生活は私たちが想像している以上に長く苦しいものになる。抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちたりするため、そんな姿を好きな人に見られたくなかったのかもしれない。もしそうなのだとしたら、私にもその気持ちは理解できる。好きな人にはいつだって綺麗な自分を見て欲しいから。もっとも、本当の理由は美香さんがいなくなった今では誰も知る由のないことだ。
「拓海さん、ちゃんとご飯食べてくださいね」
「……ああ、いつもありがとう」
美香さんが亡くなってから一ヵ月。私は時間を作っては拓海さんの家へ様子を見にいき、まるで通い妻のような生活を送っていた。拓海さんはまだときおり泣いているようだけど、少しずつ元気を取り戻している。美香さんが長くないことは知っていて、覚悟もしていたと思う。それでも、大切な人が亡くなるのはやっぱりとても辛いことだ。だから、私は拓海さんをずっと支えていきたい。またあの頃のような素敵な笑顔を咲かせられる日が訪れることを信じて。
私は最低な女だ。
今でもふとした瞬間に、そんな考えが頭を過る。私がしていることはやっぱり間違っているのかと不安になる。でも、その度に美佳さんのあの笑顔とあの言葉が私の背中を押してくれる。私が最低かどうかなんて、どうでもよくなる。拓海さんの幸せが私の幸せだと思える。だから私は前に進むことができる。こうして一歩踏み出すことができた。
仏壇の水を変え、綺麗に掃除する。線香に点けた火を手で扇いで消す。おりんを小さく鳴らして祈る。遺影の中の美香さんはとびきりの笑顔だ。それを見ていると、ずきりと胸が痛む。どれだけ時間が流れても消えることのない痛み。美香さんをずっと覚えておくための痛み。抉られるような痛みだけど、今の私たちには必要な痛み。
拓海さんの方をちらりと見遣った。用意したご飯をゆっくり、本当にゆっくりと口に運んでいる。拓海さんはこれから先、私のことを好きになってくれないかもしれない。もしかしたら、いつか私じゃない誰かを好きになるかもしれない。名前も知らない人と幸せになるかもしれない。でも、それならそれでもいい。
私の大切な人の大切な人は、私にとっても大切な人だから。
最近、美佳さんを見なかった。私が二人を意図的に避けていたということもあるけど、それでも外へ出ると拓海さんを見かけることは何度もあったのに。いつも一人でどうしたんだろうなんて思っていたけど、声をかけることもできなくて回り道をしていた。でもこれで理由が分かった。美佳さんが入院していたから一人だったんだって。
一時間ほどかけて病院に到着した。受付で美香さんがいる病室を聞いて、はやる心を抑えながら病室へ向かう。病室の番号を確かめて、静かに扉を開け中に入った。
「美香、さん……」
しんと静まり返った病室のベッドの上で、美香さんは眠っていた。酸素吸入器をつけられていて、以前とは比べ物にならないくらいやつれている。もともと細身だったのにさらに痩せていて腕や手は折れてしまいそうなほどに細く、艶やかだった髪も酷くパサついていて痛々しい。たった数ヵ月会わなかった間に美香さんの身に何があったのだろうか。
ベッドの傍にある椅子にそっと腰を下ろす。顔を見せて欲しいと言われたが、何だか起こしてしまうのは気が引ける。このまま静かに待っていて、美佳さんが起きなければまた日を改めよう。そう思い、美佳さんをじっと眺める。あまりの変貌ぶりにもう目を覚まさないのではないかと心配になるが、微かに上下する胸を見てほっと安堵した。
それにしても、入院をしているのならもっと早く教えてほしかった。きっと美香さんのことだから心配させないようにと気を遣ってくれたのだろうけど。それでも水臭いというかなんというか。蚊帳の外にいるみたいで少しだけ寂しい。そんな気持ちを紛らわせるように、スカートの裾をぎゅっと強く握って俯いた。
「雪菜ちゃん……?」
不意に、美佳さんの声が耳に届いた。ハッと顔をあげると、いつの間にか目を覚ましていた美香さんと目が合った。「来てくれてありがとう」と言いながら身体を起こそうとする美香さんを慌てて止めた。横になったままで大丈夫だと伝えると、美香さんは困ったように笑って謝る。そんなこと気にしないのに。
「びっくりしましたよ。美香さんが入院してたなんて……」
「ごめんね。心配かけたくなくて……」
「だと思いました。美香さんはいつも自分のことより他人のことばっかり考えるんですから」
椅子をベッドに近づけて、美佳さんの手を握る。弱々しく握り返してくれたが、その儚さに心の痛みが増す。病気について踏み込んだことを聞いていいのか迷った挙句、美佳さん自身から話してくれるまで待つことに決めた。重い沈黙が場を支配する。それでもじっと我慢して、美佳さんが口を開いてくれるのをただ待った。
「あのね……私、癌なの」
美香さんからの突然の告白に、頭の中が弾けたように真っ白になった。え? と聞き間違いを祈って聞き返すことしかできかなった。だけど、そんな私を意に介した様子もなく、美佳さんは話を進めていく。
「もう末期でさ。長くてあと二ヶ月くらいだって」
まるでガラスの塔が倒れたような。ガラス玉が弾け飛んだような。頭の中に大きな音が響き渡る。脳の処理が追いつかず、なんで、と自分でも意味が分からない言葉がこぼれた。なんでなんて。そんなの誰も分かるわけないのに。もしそれが分かるなら、一番知りたいのは美香さんの方なのに。馬鹿みたいだ。
「死ぬのは怖くないよ。だって私は誰よりも幸せだったから」
「死ぬなんて、そんなこと、言わないでください……」
私が必死に絞り出した言葉を聞いて、優しく微笑む美佳さん。やつれてしまっているけど、昔と変わらない素敵な笑顔。自分のことなのに、まるで他人事のように。
「でもね? ひとつだけ心残りがあるの」
美香さんはどこか遠くを見るように、私から天井へ視線を移した。
「雪菜ちゃん」
「……はい」
少しの沈黙のあと、美佳さんは再び私の目を真っ直ぐに見る。
「私がいなくなったら……拓海のこと、雪菜ちゃんにお願いしてもいいかな?」
美香さんが放った言葉の意味が理解できなかった。私が固まったまま何もできないでいると、美佳さんがふふっと笑った。優しさではなくからかうような悪戯な笑顔。
「雪菜ちゃん、昔から拓海のこと好きでしょう?」
「そ、そんなこと……」
「隠さなくてもいいのよ。雪菜ちゃんのことは生まれたときから知ってるもの。だから言わなくても分かる。そんな雪菜ちゃんだからこそ、お願いしたいの」
拓海さんを幸せにするのは美香さんの役目だから。せっかく諦めようとしていたのに。そんな風に言われてしまったら、また淡い希望に火が灯されてしまう。こんなときにそんなことを考えてしまうなんて、自分で自分が嫌になる。気がつけば堪えきれず、涙をぽろぽろと流していた。
「私は美香さんがいなかったらいいなんて今まで一度も思ったことない……!」
「雪菜ちゃん……?」
「拓海さんのことは好きだけど、私は美香さんのことも好きだから……。二人には幸せになって欲しくて、それで、だから、ちゃんと諦めようとしてたのに……。なんで、なんでそんな風に言うんですか……!」
美香さんは何も言ってないし、何も悪くないのに。自分の恋心を成就させるために恋敵にいなくなって欲しいなんて考えたことないのに。諦めると決めたのに、また希望を抱き始めている自分がどうしようもなく嫌だ。これじゃあ私がまるで最低の女だと言われているみたいだったから。そんな悪魔みたいな女にはなりたくない。そんな女になるくらいだったら、いっそ消えてしまいたいとさえ思う。
「だからよ」
握っている手を引かれ、美佳さんに抱き寄せられた。
「雪菜ちゃんがそう思ってくれているように、私たちもアナタのことが大好きなの。だから雪菜ちゃんにも幸せになってほしいって思ってる。私は十分幸せになれたから。だから次は雪菜ちゃんが幸せになる番でしょう? だからお願い」
それでも私は何も答えることができず、ただ美佳さんの胸でわんわん泣いていた。
◆◆◆
それから一ヵ月後。美香さんは眠るようにして息を引き取った。これは母から後で聞いた話だけど、美佳さんが癌であることは随分前から分かっていたそうだ。早期発見ではなかったものの、治療をすれば治る可能性はあったという。でも、どうしてか美佳さんは頑なに治療を拒み続けており、残りの短い人生を好きに生きたいと拓海さんに訴えていたそうだ。
治療に従事したとしても、闘病生活は私たちが想像している以上に長く苦しいものになる。抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちたりするため、そんな姿を好きな人に見られたくなかったのかもしれない。もしそうなのだとしたら、私にもその気持ちは理解できる。好きな人にはいつだって綺麗な自分を見て欲しいから。もっとも、本当の理由は美香さんがいなくなった今では誰も知る由のないことだ。
「拓海さん、ちゃんとご飯食べてくださいね」
「……ああ、いつもありがとう」
美香さんが亡くなってから一ヵ月。私は時間を作っては拓海さんの家へ様子を見にいき、まるで通い妻のような生活を送っていた。拓海さんはまだときおり泣いているようだけど、少しずつ元気を取り戻している。美香さんが長くないことは知っていて、覚悟もしていたと思う。それでも、大切な人が亡くなるのはやっぱりとても辛いことだ。だから、私は拓海さんをずっと支えていきたい。またあの頃のような素敵な笑顔を咲かせられる日が訪れることを信じて。
私は最低な女だ。
今でもふとした瞬間に、そんな考えが頭を過る。私がしていることはやっぱり間違っているのかと不安になる。でも、その度に美佳さんのあの笑顔とあの言葉が私の背中を押してくれる。私が最低かどうかなんて、どうでもよくなる。拓海さんの幸せが私の幸せだと思える。だから私は前に進むことができる。こうして一歩踏み出すことができた。
仏壇の水を変え、綺麗に掃除する。線香に点けた火を手で扇いで消す。おりんを小さく鳴らして祈る。遺影の中の美香さんはとびきりの笑顔だ。それを見ていると、ずきりと胸が痛む。どれだけ時間が流れても消えることのない痛み。美香さんをずっと覚えておくための痛み。抉られるような痛みだけど、今の私たちには必要な痛み。
拓海さんの方をちらりと見遣った。用意したご飯をゆっくり、本当にゆっくりと口に運んでいる。拓海さんはこれから先、私のことを好きになってくれないかもしれない。もしかしたら、いつか私じゃない誰かを好きになるかもしれない。名前も知らない人と幸せになるかもしれない。でも、それならそれでもいい。
私の大切な人の大切な人は、私にとっても大切な人だから。
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