著者 御米田よね
  • なし
# 1

【一章 白銀の獣】一話 邂逅の白銀 前編

 暗闇の中、あぐりは無我夢中で走った。
 今夜は雲が少なく、満月が空に昇っているといえども、鬱蒼とした森の中では月光はわずかにしか届かない。
 そのせいであぐりは自分がどこに向かって走っているのか、皆目見当もつかなかった。
 ろくに飯を与えなかったためあぐりの体は同年代の少女よりもやせ細っており、そんな自分の足では遠くに逃げきれないことなど分かっている。頼る先などなく、目的の場所があるわけでもない。
 それでもあぐりは走らなければならなかった。

「いたぞ! こっちの方向だ‼」

 義兄の叫ぶ声が闇を切り裂き、あぐりはぶるりと体を震わせる。背後から複数人の男の怒声と重い足音が迫り、あぐりは泣きそうになりながらも全力で走った。
 急いで逃げて来たため足の大きさに合わない草履を履いてしまい、幾度も転びそうになったがなんとか耐えた。
 着物だって襤褸切ぼろきれのような粗末で薄いものなため、弥生の今の時期には寒いが、気にしてはいられない。

 ここで捕まってしまっては、さらなる暴力に支配されるだろう。
 あぐりの体は義両親と義兄から受けた暴力の傷跡がいくつもついており、走るたびに傷が痛んだ。
 全身が痛み、足の筋肉は限界を迎え、息をするたび肺や心臓が悲鳴を上げている。
 けれどもあぐりは脇目も振らず、無理矢理足を動かして走り続けた。

 しかし、体力のある男の足には到底敵わない。

「待てよ、こら‼」

 義兄に後ろから思いっきり髪の毛を引っ張られ、あぐりは「きゃぁ!」と叫びながら体勢を崩した。

「余計な手間をかかせやがって、本当に腹が立つ女だぜ!」

 義兄は髪をつかんだままあぐりの頭を振り回す。ブチブチと髪の毛が抜ける痛みと眩暈に襲われ、あぐりは悲鳴をあげることもできない。

「馬鹿な女だな。どこへも逃げられるわけがないだろう」
「本当だ。よほど痛い目に遭いたいらしいな」

 義兄の後ろから松明を持った男が二人、下卑た笑みを浮かべながらあぐりに近付いてくる。
 義兄は乱雑にあぐりの頭を地面に叩きつけ、顔面に鈍痛が走る。あぐりは痛みに耐えながら、うつ伏せの状態でなんとか義兄たちに視線を向けた。二人の男は義兄の友人たちだった。
 義兄たちの顔を見て、あぐりは彼らの纏う濁った色に吐き気がした。

 あぐりは物心ついたときから、人が色のついた空気を纏っているように見えている。
 空気の色は人によって違い、あぐりはそれを『魂の色』と呼んでいる。
 義兄は赤や青、橙など様々な色が混ざり合い、淀んだ茶色をしていて濁り切ったドブのようだ。義兄の友人たちも混ざっている色は違うが、淀んだ茶色をしていることには違いない。
 この色をした人は、いつもあぐりを酷い目に遭わせるのだ。
 あぐりは絶望を感じ、震えながら義兄たちを見つめる。

「本当にこんな貧相な女が色見いろみなのかよ」

 男の一人が眉をひそめながら義兄に問いかける。

「そうなんだと。昔から訳の分からんことをいう奴だったが、まさか色見だったからなんてな。せっかく今までうちで育ててやったっていうのに、色見になった途端うちから逃げ出すなんざとんだ恩知らずだ」

 義兄は大きく舌打ちをし、あぐりの腹を思いっきり蹴り上げた。あぐりは一瞬息が止まり、その後大きく咳き込んだ。あまりの痛みに涙が浮かんでくる。

「おい、仮にも色見だろ。あんまりやると俺らに罰がくだるんじゃないか?」
「大丈夫だ、服で見えない場所にやりゃぁいいんだよ。逃げねぇように足の骨を折っておくか」

 義兄の言葉に、あぐりの全身がさっと冷たくなっていく。
「それはさすがにやり過ぎなんじゃないか?」「そうだぞ、上に何か言われるのはごめんだぜ」と男たちは義兄に意見するが、「大丈夫だ」と義兄は淡々と返す。

「こいつが勝手にこけて足をくじいたことにすりゃぁいい。だよなぁ、あぐり」

 義兄は薄ら笑いを浮かべながら言い、あぐりはさらなる恐怖に体を震えさせる。

「お、お願い、します……」

 あぐりは痛む腹と肺を動かし、震えながらなんとか声を出す。いつの間にか口の中を切っていたらしく、口の端から血が滲み出てきていた。

「も、もう、逃げません。ど、どうか、骨を折るのはやめてください……」

 涙をあふれさせながら請うが、義兄は「はぁ?」と顔をしかめただけだった。

「なんでお前みたいなクズの言うこと聞かなきゃいけねぇんだよ。おい、こいつが動かないように体を押さえとけ」

 義兄は男たちに指示を出し、男たちがあぐりへと近づいてくる。あぐりはどうにか逃げようとするが、痛みで体が上手く動かない。

 ふと、すぐ近くの地面に尖った石があることに気付きあぐりは閃く。
 この石で喉元を切ることができれば、死ねるだろうか。
 今まで何度も死んでしまおうと考えたが、結局勇気が出せず行動に移せなかった。
 でも、危機的な今の状況なら迷わずに首を切れる気がする。
 この先ずっと虐げられて生きるよりも、今この場で全てを終わらせよう。

 男たちがあぐりの体に触れる前に、あぐりは石に向かって手を伸ばした。

「おい」

 唐突に聞こえてきた声に、その場にいた全員の動きが止まった。

「追い剝ぎならよそでやれ」

 若い男の声だった。
 一体何者かとあぐりは声のした方向を見るが、義兄が邪魔で誰がいるのか分からない。

「なんだ、このチビ。俺らが何しようがお前に関係ねぇだろ。お前こそ家に帰っておねんねしてな」

 義兄は苛立った口調で何者かに言う。男たちもあぐりから離れ、義兄の横に立って何者かに視線を向けている。
「このへんじゃ見ねぇ顔だな。どっから来た」、「小汚いガキだな、とっとと帰れ」と、男たちは口々に飛ばす。

「黙ってんなよチビ、なんとか言ってみろ……」

 義兄の言葉が不自然に途切れたかと思うと、義兄の首元から何かが噴き出した。
「は?」と男たちが呆けた声を出した瞬間、義兄の左側にいた男の首からも何かが噴き出し言葉が消える。
 噴き出したものが血であるとあぐりが分かったのは、義兄と男が地面に倒れたときだった。

「う、うわぁぁ⁉」

 残ったもう一人の男が倒れた義兄たちを見て叫び声を上げるが、その声もすぐに闇に呑まれて消えた。何者かが男の首も切ったのだ。
 男は血をまき散らしながら倒れ、辺りは急に静かになる。
 瞬く間の出来事だった。
 あぐりは信じられない思いでピクリとも動かなくなった義兄たちを見つめる。
 つい先ほどまで自分に暴行を加えようとしていた義兄たちが、刹那のうちに命を散らしたのだ。

 男たちが手に持っていた松明も地面に転がり、火が草に燃え移ろうとしている。しかし、いつの間にかあぐりの目の前に立っていた何者かが足で草を潰し、器用に火を消した。

 何者かは小さくため息を吐き、純黒の瞳であぐりを見下ろした。
 あぐりはなんとか上体を起こし、目の前に立っている何者かを見上げる。

 その瞬間、全身の毛という毛が逆立った。
 心臓が弾けるかのような衝撃を受け、震えが体中に広がっていく。

 あぐりは目の前の少年から目が離せない。
 彼の纏った魂の色は、一切の混じりけのない白銀だった。
 あぐりにしか見ることができないその白銀は、彼の全身を包み込み悠々と輝いている。
 雲の切れ間から差した満月の光ですら、白銀の輝きの前には霞んで見えた。

「なんて美しいの……」

 あぐりの口から自然と言葉がこぼれる。
 これほどまでに美しく、強い魂の色をした人間を、あぐりは今まで見たことが無かった。

「なんだお前。気持ち悪いな」

 少年は無表情な顔を崩さずに言い捨てる。
 少年は黒く艶のない短髪に大きな黒い瞳を有しており、小柄でみすぼらしい風体をしていた。上下真っ黒な着物に身を包んでいるため、闇と同化しているかのようにも見える。お世辞にも美しいとは言えない外見だ。
 それでも、魂の色の美しさは変わらない。

 あぐりはじっと少年に見入っていたが、少年は構わずあぐりへと近づいてくる。
 少年はあぐりのすぐ手前で止まりしゃがみ込むと、手に持った短刀の刀身をあぐりの首筋に当てた。
 わずかに首の皮が切れ、じわりと血が滲んでくる。

「俺の事を見てる場合か? 今から死ぬんだぞ、お前」

 少年はあぐりの目を見て淡々と言う。
 間近で見た白銀の魂は少年の体から沸き立つように輝いていて、より一層美しく見えた。
 まるで人の心を感じられない色だ。もしかしたら、彼は人間ではないのかもしれないとあぐりは感じていた。

「殺してください」

 あぐりは震える声で懇願する。
 義両親に尊厳を踏みにじられ生きるよりも、この美しい白銀の獣に殺される方が何倍もましだと思えた。
 元々捨てようとした命だ。
 ここで殺されても悔いはない。

 あぐりは死の覚悟を決めていたが、短刀があぐりの喉元を切り裂くことはなかった。
 少年はわずかに眉を寄せ、短刀をあぐりの首から離し立ち上がった。

「……殺さないんですか?」
「いや、なんかあんた、ほっといても死にそうだなと思って……。死にたいやつを殺してあげるほど俺は優しくないよ」

 少年はあぐりを見下ろしながら無表情に言うが、魂の色がほんのわずかに揺らいだことをあぐりは見逃さなかった。

「なんで嘘を吐くんですか?」

 純粋な疑問をあぐりは口に出す。
 少年は表情を変えなかったが、魂の色が明らかに揺らめいた。

「お前、俺の何を見ている」

 少年は真っ黒な瞳であぐりを見据え問いかける。

「……あなたの色です。私、人の周りの空気に色がついているように見えるんです。あなたの色は白銀で、今まで見たことがないほど美しいです。その色のついた空気の揺らぎ方や、どんな色が混じっているかで、相手が嘘をついているかどうか分かるんです」

 あぐりは正直に答える。きっと今までのように「意味の分からない事を言うな」と言われると思っていたが、少年は真面目な顔であぐりのことをじっと見つめている。

「……あんた、この男どもに色見だとか言われていたな。本当か?」
「はい」
「そうか。すごいな、本当に常人には見えない色が見えるんだな」

 意外にも少年はあぐりの言うことを信じたようだった。今まで誰にも自分の感覚を信じてもらえたことがないのに、こんなにも簡単に信じてもらえたことにあぐりは驚いてしまう。

「色見って、確か虚色きょしょくの王のところに行って、虚色が何かを示すことができれば、その色見が新たな虚色の王になれるんだっけ。王になったらたくさんの土地と財産が与えられるんでしょ? すごいじゃん」

 少年の言葉に、あぐりは返すことができない。
 なにもすごいことなどない。
 勝手に色見にされ、虚色を示せと言われ、示すことができなければ役立たずと罵られ冷遇される。
 それのなにがすごいというのか。

「あんたの言う通りだ。俺はあんたを殺す気はないよ。なんでこの男たちに追われてたんだ?」
「……この人たちは、私の義理の兄と、兄の友人たちです。私、小さい頃に両親を亡くして、義両親に育てられてきたんですが、いつも暴力を振るわれていました。私が色見になったことが分かると、今度は私を利用しようとしてきたんです。このままだと、この先ずっと義両親たちに虐げられるだけだと思って、逃げ出したんです……」

 あぐりは涙を滲ませ話すが、少年は興味無さげに「ふーん」とつぶやくだけだった。
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