- なし
# 2
【全4話】第1話/第2話 曖昧な時間の消費期限
――『もう限界だ。アンジェリカを殺すしかない。』
荒いけれども確かにルーファスの筆跡で、そう書かれていたのだった。
周囲の音が遠くなった。
耳の中で心臓がどくどくと、早鐘を打つ音だけが響く。
結婚を先延ばしにしたいのは、何故?
アンジェリカと関係があるの?
私と結婚したくないから? 巻き込まないため?
このまま私は殺人犯と結婚するの? それとも、類が及ばないようにこちらから婚約破棄するしかないの?
いつ、殺すつもりなの?
私は喉を鳴らすと、紙を慎重に折りたたんで、そうっとジャケットのポケットに押し込む。
それから暖かで人畜無害そうな婚約者の面立ちを、瞼が開くまで眺め続けた。
■第2話 曖昧な時間の消費期限
翌日の昼休み、私は早速、隣にある小説編集の部署を訪れた。
元々の実用書の部署に机と仕事を詰め込んだ部屋はだいぶ雑然としていた。資料の角が綺麗に揃えられているルーファスの机に目が吸い寄せられれば、思った通り主の姿はない。
「済みません、今お時間宜しいですか? 雑誌の次号の特集の参考にご意見をお伺いしたくて」
私は金色の髪を後ろできっちり結んだ女性に声を掛ける。かっちりした灰色のドレスと眼鏡でも色気が漏れ出る彼女は、シャノン・フォスターさん。
二年先輩で、新設の小説の部署を実質的に管理している。
「ええ、今ちょうど手が空いていますから」
机と椅子だけの簡素な小会議室に場所を移して扉を閉めると、シャノンさんは伺うような視線を向けてきた。
「パトリシアさんは大丈夫ですか?」
「……結婚のことなら、仕方ないですよね」
「社長のお嬢さんに言うことじゃないかもしれませんが、お仕事より優先していいと思いますよ」
彼女は入社前に父の忘れ物を届けに来た時からの顔見知りで、しっかり者の性格からか、今も色々と気にかけてもらっている。
その彼女を利用するのは申し訳ない、と思いつつ私は情報を得るために神妙な顔つきで頷く。
昨夜唸りながら書き換えた、日々の仕事も結婚式も後回しになったタスクの一番上は、ルーファスとアンジェリカ先生の関係を調べることだった。
「実は、そのこともありまして。
いま、女性のお茶会でアンジェリカ・エアハートの本が大評判なんです。ここから新しい流行が生まれると感じています」
「まあ」
シャノンさんの目がきらりと輝く。
「雑誌でも、登場する物品などを紹介できれば売り上げが伸びて、父ももうちょっと人手を増やしてくれるかなと思って」
「ああ、今ロウさんものすごく忙しいですからね。ちょくちょく呼び出されていますし……午後からも外出予定だそうで、そろそろ戻ってくると思うのですが」
「……仕事減ると、いいんですけど。どんな状況なんですか?」
納得して頷くシャノンさんは私に同情のまなざしを送る。
「最近は実用書より小説の方に注力してもらっています。
ご存知のように女性向けのロマンス小説の売り上げがとても良くて、特に担当のアンジェリカ先生の作品、社長に二カ月に一冊は新刊を出したいって言われて、大忙しです」
「パメラのシリーズですね、読みました。素敵ですよね」
「私もですよ! 『曖昧なままにしておいた方が、心地良かったのに』とか!」
「離別のシーンの『あなたを想い続ける許可をいただけませんか』とか」
小説の話題に笑顔を見せたシャノンさんだったが、そこできまりが悪そうに首を傾げた。
「ただアンジェリカ先生、本業の兼ね合いかご身分のある方なのか、なかなか連絡が取れない方なんです。それで余計に負担がかかってしまって……」
私の知る限りでも、家族に執筆を知られたくないからと性別や筆名を変更する方、私書箱のみのやりとりの方はいる。
それだけなら、筆名を使い分ける記者もいるから珍しくはないけれど。
「連絡先は担当のロウさんと、私しか知りません。やり取りは基本的に郵送か、ロウさんが仕事場に行くことになっていますが、加えて最近は締め切りに間に合わないとか……相談もしばしばで、苦労しているみたいです」
「どれくらい、ですか」
「二、三日に一回ですね」
心臓が跳ねた。跳ねて、なかなか静まらない。
私と顔を合わせる回数よりずっと多いのは単なる事実で、そこにはまだ仕事以外の意味は付随していない――いや、もしそうであっても冷静になるべきだ、と私は自分を叱る。
「遠いところにお住まいなんですか?」
「……許可がないので明言できませんが、近隣の区域に専用の仕事場を借りていらっしゃいます」
それなら、馬車ですぐ行ける範囲になる。
「どんな方ですか?」
「私も一度だけ行ったことがありますが、その時は風邪をひいておられて扉越しの対応でしたから、顔を見たことがないんです」
「……そうなんですか。他の担当の方と、負担を分け合ったりとかは……」
「肝心のアンジェリカ先生がロウさんをご指名なので、他の方が担当するのは難しいと思いますね」
「……指名ですか……?」
シャノンさんの声に若干気まずそうな響きが混じるのは、私がすぐ想像したようなことを彼女も考えているのかもしれない。
あのロマンス小説の中身はかなり貴族の社会に取材されて書かれていた。教養からしても、貴族の奥様かご令嬢の可能性が高いように思える。
「……ルーファスの、個人的な、知り合い……?」
彼女たちが書こうとするなら、お茶会に顔を出している私との接点の方が、多いはずだ。私を経由して会社に仕事を相談してもいいはず。
自分で言うのもなんだけど、口が軽いなんて評判は立っていない。
それをわざわざルーファスに直接相談するのだから、男爵家の婿でなく、子爵家の次男として、一人の男性として見られている? たとえば夜会にでも出ていた時に知り合って親しくなって――。
「パトリシアさん、あの、想像とは違うと思いますよ」
ついずぶずぶと思考の沼に沈んで、「浮気」という言葉を拾い上げそうになる意識を、彼女の聞いたことのない、慌てた声に引き戻される。
「みんなで大掃除しているときに、ロウさんの机から原稿が出てきたんです。ちらりと見えたのがすごく素敵な恋愛シーンの草稿で、つい私が夢中になってしまって」
「シャノンさんが発見されたのですか?」
「ええ。伺ったら郵送での持ち込みだと仰ったので、これを書かれた方に連絡を取って、本にしたらどうかと私が勧めたんです」
早口のシャノンさんにぼんやり頷くと、扉からノックの音がした。薄く開いた間から遠慮がちな同僚の声が聞こえてくる。
「お話し中のところ済みません。パトリシアさんを社長がお呼びです」
「はい、今行きます」
私は答えると、立ち上がってシャノンさんに頭を下げる。
「……時間を取っていただいたのに、途中で申し訳ありません。
アンジェリカ先生の読者さんの反応の良いところ、またあとで教えてください。それと雑誌の記事ができたら、確認してもらっていいですか?」
「大丈夫ですか」
「ええ、締め切りに遅れたこと、ほとんどないです。……失礼します」
気遣うような顔に話題をあえてそらして笑ってみせて、もう一度頭を下げると、私は父のところへ急いだ。
***
父は書類やら何やらで狭苦しくなっている社長室の、大きな、これまた紙類で埋まっている机の向こうに中肉中背の半身を屈めて、数字が並ぶ書類を覗き込んでいた。
「……お父様、参りました」
「パトリシア、ロウ家の財務状況が芳しくないことはルーファス君から聞いているか?」
書類から顔を上げた父は、眼鏡を外して白髪交じりの眉をひそめた。娘の私と同じくどこにでもいそうな紳士といった風貌だけれど、会社を興して継続するくらいの野心がある――つまり、私の結婚の決定権を握っている。
「何となくは」
「外国の干ばつの影響で投資が無駄になってな……まあともかく、うちとロウ家が縁を結ぶ意味が薄れてきた。
パトリシアも、相手がルーファス君でなくともいいんじゃないか」
「……何を、言ってるんですか……今更じゃないですか」
私はごく冷静に答えたつもりだったけれど、声が上ずってしまい、父は更に眉を下げる。
「……結婚式の打ち合わせを二人に任せていたら、伸ばし続けているじゃないか」
「それは、忙しすぎるからです。ルーファスに仕事を振りすぎではないでしょうか。もう少し人を雇っても、まだまだ経営に余裕はあるはず……」
「本当に結婚するつもりがあるのか?」
そう言う父が、婉曲的に聞いているのは分かる。私でなく、ルーファスの気持ちを。
私がとっさに答えられずにいると、父は意外な名前を口にした。
「……あのアンジェリカ・エアハート」
「お父様もロマンス小説を読まれるんですか?」
「あれだけ売れてるんだ、軽く目を通した。他のを後回しにしてまで刷らせている売れっ子だからな。
……で、アンジェリカ先生への問い合わせが凄くてな。わたしのところにも色々来ている。コラムとか雑誌の連載をとか、連絡先を教えろとか、探られたりだとか――ルーファス君しか把握していないのに、だ」
父は参ったというように息を吐いた。
「ルーファス君には彼女の情報を渡すか、できないなら最低限先生を専属作家にするように尻を叩いている。
ロウ家への援助と、お前と結婚したいなら、と。かなりの譲歩だと思わないか? だがそれすらうまくいってない」
「そう、ですが。……でも先生に嫌がられて他社に逃げられるよりずっといいはずです。……それから、私にも彼の仕事を分けてください」
「お前はお前の仕事に専念しろ。それにルーファス君にも無茶な量は振っていない。次に社長になるならこれくらいできないでどうする」
父の目に見えたのは、事業家としての苛立ちではなく、父親としての娘に対する憐れみだった。
「元々彼は学者志望だろう。別に婚約解消してもこちらから解雇はしないし、彼個人になら数年金銭的に援助してもまあ、構わない」
後者は破格の申し出だ。
でも、さすがにその援助の中には、彼が売れっ子作家の殺害犯になっても、という仮定は含まれてないはず。
「頑張るように、お前からも言ってくれ。もし無理そうなら、彼のことは諦めなさい」
破格の申し出は同時に、最後通牒でもあった。
唇を引き結び、父に「はい」と答えられないまま部屋を出る。
電灯の少ない薄暗い廊下の、柱の影に吸い寄せられた私は背中を冷たい壁に預ける。
深く息を吸って吐けば、真新しい印刷物の香りがした。嫌いではない、むしろ好きな香り。
それなのに無性に大学の図書館の、古い本を嗅ぎたくなる。
学生でなくなった私には容易に戻れなくなったそこに、何を置いてきてしまったんだろう。
そんな風に考えていた時、廊下の向こうから複数の足音がして私は壁から背を離す。連れ立って歩いてきたのは、ルーファスとシャノンさんだった。
彼はフロックコートにハットの訪問着で、シャノンさんも普段の服の上から少し改まったコートと帽子を被っている。
私に気付いてぺこりとお辞儀をするシャノンさん。
そのまま通り過ぎようとするルーファスの目は、対してうつろで正面しか見ていないのに、機械的な足取りだった。
聞きたいことも言いたいことも沢山あったけれど、いたたまれなくなる。
「あの、ルーファス」
勇気を出して声を掛ければ振り向いた彼の返事まで、一、二秒あった。
「……パトリシア。……どうしたの?」
気まずそうに微笑するルーファスに私はぎこちなく笑顔を返す。
「ちょっと父に仕事のことで相談があって。……どこに行くの?」
「……作家の先生が資料を欲しがっているんだけど、女性向けのものは良く分からなくて……それでフォスターさんに協力を頼んだんだよ」
「済みません、パトリシアさん……また後で」
シャノンさんがやっぱり気まずそうに謝って、後で説明しますというように目配せをしてくる。
「シャノンさんでなくても、仕事が終わってから私が同行するのでは駄目?」
「……ごめん、それは……。……あの、フォスターさん、先に玄関で待っていてもらってもいいでしょうか?」
ルーファスは視線を彷徨わせた後、シャノンさんに軽く頭を下げた。彼女は頷くと「ゆっくりでいいですよ」と言って先に歩いていく。
その背中が角を曲がって見えなくなってから、私は口を開いた。
「あのねルーファス、明日、仕事を休めない?」
「ごめん、明日は大事な仕事が」
「大事な仕事……? 私、より、アンジェリカ先生の方が、大事?」
何重かの意味で言うべきでない言葉を口にしてしまって、咄嗟に謝罪する。
「っ……ごめん」
「……どうしてそんなことを?」
そういうルーファスの目はまだぼんやりと私を見ている。
……もしかしたら疲れ切って、アンジェリカ先生を殺したいなんて思うようになったのかもしれない。
寝不足だと思考が悪い方に行きがちだ。
とはいえ彼のことだから、正直に休んだ方がいいと言っても、きっと私の言葉では届かない。断るのは目に見えている。
「ちょっと相談があって……わ、私も、仕事のことなの」
「パトリシアが僕に手伝って欲しい仕事なんてあるの? いつだって一人でこなしているのに」
「……ルーファス?」
普段と違う何か切羽詰まったような声音に手を伸ばしかけて、彼の手が革手袋に包まれていることに今更気付いて引っ込める。
「……あのね、」
「パトリシアもこれから仕事だよね」
「……うん、友人宅のお茶会に招かれてて、リサーチと営業。……でも、私、欠席したって、」
「僕の負担のことだったら、もうすぐ楽になるから、だから大丈夫だよ」
「……ちが……明日が駄目なら明後日は?」
「そうだね。明後日なら大丈夫……大丈夫にするよ」
やけに力強く頷くので、不安になってしまう。つい「本当に?」と問い返せば。
「たぶんパトリシアは……僕のことを信じていないよね」
そう消えそうに小さい声で言った彼が儚げに、あまりにも寂しそうな笑みを浮かべる。
喉のよりも先、胃の奥に溜まっていた言葉が出ようとしてはつっかえて、炭酸水に咽るように、あぶくのように息だけがぬるい空気に消えていく。
「ごめん……信じてもらえるように、頑張るから。……じゃあ急ぐから、また」
結局私は何も言えないまま、彼の揺らぐ背中を見送ることしかできなかった。
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