著者 星町憩
  • なし
# 3


 その日、ウルリカが機嫌が悪いことにフロレンスは気づいていた。どうしたのかAIに尋ねれば、ウルリカには初潮というものが来たのだという。初潮とは何かAIに尋ねると、学術的な答えが返ってきた。内容が難しくてフロレンスにはよくわからない。
 ただ、それが自分のような鉱石の体では到底起こりえない生理現象だということは理解した。血が出るというのは、体液がだらだらと垂れ落ちることで、それって死んでしまうのじゃないだろうか、だいじょうぶなのかと不安でたまらなかった。AIによれば、それははらに貯めていて使わなくなった血をただ外に捨てているだけだというけれど。
『卵子という、子供の材料の半分が先に体から排出されます。精子という、子供の材料のもう半分が卵子と出会い結合しない限り、使わないものなので、捨てられます。その結果、子供をお腹の中で育てるために貯めていた血もいらなくなるので、体の外に捨てる。そういう仕組みです』
「人間って、お腹の中で子供を育てるの? この間見たアザラシやホッキョクグマもそうなの?」
『肯定』
「生き物って不思議だねえ……でも僕とアイちゃんはお腹の中に子供ができないんだよね?」
『はい』
「どうして?」
『私たちは、子孫を残すために作られた物ではないからだと推測します』
「じゃあ、ウルリカは子孫を残すために作られたの?」
『肯定』
「誰に?」
『不明。長い人類の歴史でも解明されず、人類は創造主たる存在を神という名で仮定しました』
「ふうん……」
『月経の間、人類の女性は腹痛、目眩、貧血、憂鬱といった様々な身体的精神的不調に苛まれます。いたわって差し上げてください』
「うん、わかったよ!」
 AIと話をしていた体の情報を取得し、ウルリカの部屋でくつろいでいたイエローのフロレンスは体を起こした。
 伏せって枕に顔を埋めたままのウルリカの頭を優しく撫でる。
「ねぇウルリカ、どうしてそんなにつらそうなの。苦しそうなの。お腹が痛い? 頭が痛い?」
「……痛みなんてあんたにはわからないでしょ」
「うん、僕には痛覚がないから。でも痛いはつらいものだってアイちゃんが教えてくれたよ」
「……お腹も痛いし、頭も痛いし、でもそれよりずっと、胸が痛い」
「胸?」
 フロレンスは首を傾げた。胸が痛くなるとは聞かなかったような。他にもどこか悪いのだろうかと心配になる。
「だいじょうぶ? 薬飲む? 探してくるよ?」
「これは、薬では治らないわ」
 ウルリカはやっと顔をあげ、仰向けになった。
「心が痛いのよ」
 心、とフロレンスは呟いた。小説でも漫画でも映画でもよく聞く言葉だ。けれど、ウルリカから聞いたのは初めてだった。
「ウルリカにも、心があったんだね」
「そうだよ、私にもあるの。……って、ちょっとそれはひどいんじゃない? しつれいね!」
「あっ、違うよ! そうじゃなくて……映画の中の人間って、確かに君と同じ生き物だということはわかるんだけど、さわれないから……なんだか本物って感じがしなくて、あんな偽物とウルリカが同じものなんだなって不思議で……」
「そう。それは……そうね、私も毎日思ってる」
 ウルリカは、ふと息を詰まらせ、静かに涙を流した。フロレンスは、ウルリカの涙も今初めて見たのだった。
「ウルリカ……それは、涙?」
「そうよ。嬉しい時にも出るけど、悲しい時にも出るのが涙よ。感情が、どうしようもなかった時に私たちは泣くの。AIにも、あなたにもそんな機能、ないみたいだけど。こんな機能必要ないもの、ね」
「ウルリカ……」
「そうよ。生理だってそう。必要ないのよ、AIにも、フロレンスにも。人間には必要なだけ。でも、本当は私にだって、必要ないのよ!」
 話しているうちに、ウルリカの感情はどんどん昂ぶっていく。
「だってそうでしょう? 私はね、私、最後の人間なの! 相手がいないの! 私が子供を産むことなんてないのよ! こんなの、子供を産むためだけのいらない機能じゃない。なのにどうして私、必要のないこんなもので苦しいなあって思わなくちゃいけないの? これからずっと、ずっとずっと毎月毎月これが続くの! 繰り返されるの! 気が狂ってしまいそう!」
「ウルリカ、ねぇ、ウルリカ。君は……君、子供が欲しいの? 僕じゃだめ?」
「わからない……あんたたちのこと、我が子みたいって思うときもある……あんたたちのこと、かわいいって思ってるよ。きっと愛しいってこういうことなのって。教えてくれたのはあなたたちだよ。さびしかったの、埋めてくれたのもあなただった……」
「アイちゃんだけじゃ、足りなかった?」
「AIはただのロボットじゃない……! 私のこと、わかってくれない、共感もしてくれない、心のわからない機械でしかなかった」
「僕は? 僕は足りてる?」
「あなたは、AIよりはずっとましだわ」
 ふと、フロレンスは、フロレンスたちは。
 一斉に、体が軋んだような気がした。
 見れば、内側から、ヒビが入っていた。
「……ウルリカ。僕ね、いつも君の視界に映るようにしたよ。君が寂しがりやなの、寂しいって言葉を知らないうちから知ってたんだ。どうしてだろう、わかったんだ。だから僕、君の世界にずっと映っていたかった」
「そう……そうなのね」
 ウルリカは涙で濡れた頬を拭って、困ったように微笑む。
「そうね、どこに行ってもフロレンスがいたから、私寂しくなかった。夢を見る時はまた一人になりそうで怖かったけど、フロレンスがそばにいてくれたから。あなたの冷たい体がいつも私のそばにあったから、ああ、いるんだって」
「うん……そうだよ、そうなんだ……ねえ、ウルリカ。僕ってもろい石なんだよ。知ってた?」
「知ってるわ」
「アイちゃんもね、ああ見えて、中の部品とかすごくちっちゃくて、壊れやすいんだ。定期的に頑張ってメンテナンスしてるんだ」
「あれは精密機械だもの」
「うん。それでね、君の体にも、免疫細胞っていうのがあって、君の体を毎日メンテナンスしてるんだって。でもね、僕にはそんな機能ないから、僕は……僕は、あの地層から体をどんどん増やしていくの。ここにはね、小さな小さな生き物がいて、それが僕らの体の中にいて、僕に命をくれたんだ。僕は、風や雪や氷の囁きを聞いて、ずっと君のこと知ってたんだ。君に会うために生まれてきたんだ」
「うん」
「でもね……僕、本当は壊れやすいんだ。一度壊れたら、直らない。体が全部砕けちゃったらもう動けない……僕の体の材料にも、限りがあって、もしかしたら僕、君より先に死ぬのかもしれない」
「やだ。そんなこと言わないで。歩き方だって走り方だって、跳び方だってうまくなったじゃない」
「だって、ウルリカ、僕今、みんなヒビが入ったよ。内側が割れたんだ。どうしてかわからないけど、君の言葉で、割れたんだ。また体、補充するよ。でも今動いてる僕たち、多分また何か衝撃があったら全員割れちゃう」
 ウルリカは体を起こして、うろたえたような声を出すフロレンスの両手をとった。優しく撫でる。気遣うような明暗が、その綺麗なグリーンの目に浮かんでいる。
「フロレンス、それは……もしかしたらそれが、あなたの心のあり方なのかもしれないわ。傷つけてごめんね」
「じゃあ、これが……怖いってことなのかな。つらいってことなのかな。あのね、ウルリカ。僕もアイちゃんも、君を一人にしないためにいるのに、そのために生まれてきたのに、君より長く生きてるって限らないんだ、きっと」
「うん」
「子供を残せないって、こんなに怖いことなんだね。僕は何も生み出せない……自分の体しか。君も何も生み出せない。君は、僕を見つけただけで、僕を産んだわけじゃないんだ。だから、そうだ、君は僕のお母さんなんかじゃなかった」
「そうよ。最初からそう言っていたじゃない。私はあなたのママじゃない。私たちは、ただの友だち」
「友だちでも、いい……君の特別なら、僕それでいいよ。でも、もし一番望まない未来が来たら? 君を看取りたい僕の願いが叶わなかったら? 僕は何のために」
 ウルリカはフロレンスを抱き寄せた。
「……そうね、あなたがいなくなったら、私生きていけるのかもうわからないわ。でも……思い出は、あるから」
「それじゃ足りないよ。僕、今初めて気づいたよ。最後って、終わりって、怖いんだね。僕の最後の一体もなくなったらどうしよう。君が死んじゃった時、本当に僕、耐えられるかな?」
「わかるわ。だから……だから人間もね、ずっときっと、何かを残してきたのよ」
 ウルリカはフロレンスを撫でた。フロレンスは、ウルリカを抱きしめ返した。縋るように。
「この貯蔵庫は、そういうものでできてるの。人間が歴史を重ねて残したくて残してきたものが、全部この中にある。でもね、私はその全部を大切にするだけの寿命がないわ」
「僕が……僕が、全部引き受けたいと思ってきたよ」
「うん……でも、不安だね。あなたみたいな新しい人間が、他にもたくさん生まれてきてくれたらいいのに。あなたみたいな奇跡が、また起きてくれたらいいのに」
「そんなの……」
 そんなの、どうしたらいいかわからない、きっと無理だと言いかけて。
 フロレンスは、ふと思いついた。
 種だ。
 種を作れば、もしかしたら。


 川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、〔プリオシン海岸〕という、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向うの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のようなものをひろいました。
「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」
 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。
 だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴つるはしをふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。
「そこのその突起を壊さないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
 見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。
「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいにのみでやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云いました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしそうに、あちこち歩きまわって監督をはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。
 こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


 フロレンスはウルリカの気に入りの物語が好きだった。その中でもいっとうフロレンスの心――というものがあるのならば――を震わせたのは、プリオシン海岸の物語だった。
 奇しくも、AIとウルリカがそう呼んでいたのだ。あの、彼らが生まれた崖を。崖下の海岸を。
 なぜそういう名前なのかと尋ねれば、ウルリカが名付けた、ただ空想上のそれの風景に似ていたから、という。それが運命だと思った。
 ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう――
 カムパネルラの想いは、フロレンスの想いでもあった。そのカムパネルラが拾い上げた胡桃の化石を、学者は証明に必要なものだと言った。あれはきっと、生きた証明になる化石だったのだ。
 僕たちに必要なのが、きっとあの胡桃なんだ――
 そう、フロレンスは思った。
 体を持つ全てのフロレンスが、砕けて結晶になってしまったそれらが、まだ体を持たぬ材料が、きっと同じことを考えた。
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